俎板の黒猫

1.


『あああん、いい、いい、突いて、あんあん、設楽、、、さん、、もっとおおおっ』

女の嬌声と共に朝を迎えた。と言っても夢の話だが、、、

何ともナマメカシイ夢を見たものだと、笑いが漏れた。今年、34になったばかりの設楽涼(したらりょう)は、まだまだ衰えることを知らない分身を感じながら、思いっきり伸びをした。

けれど、この隠し切れない元気な証は、ちなみに、あのナマメカシイ夢によるものではない。単に朝の生理現象に過ぎないのだと、筋肉のバランスのとれた美しい肢体をおしげもなくシャワーにさらし、頭から湯を滴たらせる。なぜなら、今しがた見た夢の女は、顔こそ見えなかったが、アレは最愛の女、倉沢ゆり子(くらさわゆりこ)ではなかったからだ。だからと言って、誰だと聞かれれば困る話で、ここのところゆり子以外の女は抱いていない。とはいえ、少しだけ涼は罪の意識をチリリと感じることにする。

最近では互いになかなか思うように二人の時間が作れない。涼が思い余って、ゆり子と同じマンションに引っ越してきたというのに、ゆり子の部署でここのところトラブル続きで、彼女が忙しくて涼を十分に構ってくれない、といのが最近の事情だ。勿論、昨夜は久しぶりに、ゆっくりとゆり子の体をすみずみまで堪能した。ゆり子が抱ければそれでいいのだが、、しかし、出来ればゆり子も、あの夢の女のように、もう少しばかり積極的に乱れてほしい、などとも思う。2歳下の同僚というか後輩は、涼が抱いても抱いても全く慣れないようで、未だ恥じらいを見せる。


(まあ、そこがかわいいところなんだが、、)

朝から一人ごちる設楽涼。さて今日は月曜日、これからまた忙しい日々が始まる。肌からはじける水滴をタオルでさっとひと拭きをする。さっぱりした気持ちで週を迎える気分は爽快で、仕事も油にのり、プライベートも充実している男は、今や向かうところ敵なしだと、自負している。




*****

「設楽課長、、あ、あの、、」
「ん?何?」

真っ赤な顔で涼の課長デスクの前に立つ女子社員は、去年入社した総務の子だ。今年に入って総務に異動になった同期の笹井(ささい)が、『なかなか今どき純粋で』と褒めていたのを思い出す。まあ、笹井はあまり女を見る目がないのだから、と涼はあまり深く考えない。

倉沢ゆり子とつきあっていることは、社内では未だ一握りの連中しか知らない。勿論、涼にしてみれば、堂々と社内中に知らしめたいと思っているのだが、肝心のゆり子が未だ首を縦に振らないのだ。それならばと、しかたなく涼も口をつぐんでいるわけで。なので、=ここのとろこゆり子一筋なものだから= ハタから見れば他の女に目もくれない、とても品行方正な大人の男に映るらしい。仕事も出来て、尚且つ、見た目もいい。加齢臭などとも無縁の34歳、きゅっと目じりの上がった涼しげな瞳と端麗な顔立ちで、ニッコリ笑えば、女子社員の体温は上がりっぱなしだ。

「あの、、、笹井さんからコレを。」
「ああ?ついでのときでよかったのに。でも助かった、サンキュ。」

涼の笑顔に、総務の子はみるみるうちにユデダコになっていく。湯気がほわほわと出ているような、ぼーっと上せた女子社員から涼は資料を受け取った。これは同期の笹井が去年作成したもので、事務機器などのコスト面を考慮するには、なかなか役立つ資料となっている。ただ、いかんせん分厚い資料というのがタマニキズで、同期の中でいち早く出世した涼の後ろを息切れしながら追いかけても、結局、笹井が未だ課長になれない原因のひとつに数えられるのかもしれない。





*****

「あれ倉沢は?」

昼前に、ゆり子がチーフを務めるSCMフロアーに涼は足を踏み入れた。

「横浜工場です。」
「え?」

サブチーフの谷美和子(たにみわこ)の返しに思わず涼が一瞬固まる。昨夜、ゆり子から一言も工場に朝から直行などとは聞いていなかったからだ。

「またトラブル?緊急呼び出し?」
「あれ?倉沢さん言ってませんでした?」

美和子は公私をはっきりつける。いつもはユリタと呼んでいる仲の良い女友達でも、仕事現場では必ず『倉沢さん』と呼び、けじめをつける。ただし、涼とは気心が知れた中で、彼女は声を潜めて耳打ちをした。

「ユリタ、承認課の久保川(くぼかわ)さんと密会です。」

などと意地悪気に笑う美和子を睨みながら、涼は前髪をかき上げた。

「ああ、また会議なんだ。ふうん。」

ゆり子のことだ。きっと涼に言う必要はないと思ったか、もしくは言い忘れたか、いずれにしてもたいしたこではないのだが、やっぱり涼にしてみれば面白くない。

「代わりにわたしがランチご一緒しましょうか?」

唇をあげてにやりと笑う美和子は、まだ涼の知らない情報を持っているようだ。涼は、苦々しい顔をして、ぶっきらぼうに聞く。

「何食いたいの?どうせ俺におごらせんだろ?」
「ああ。やっぱり設楽さん、頭の回転速いですよね?だけど月曜日から、腰抜かしたりでもしたら、今週は仕事になんないかもよ?設楽さん?」

などと不気味なことを言う美和子は、今や、涼にズケズケとものが言える数少ない後輩。いや、女子社員では、美和子の毒舌に敵うモノはいないだろう。男らしくサバサバしている谷美和子は、話していても気持ちがよく、なんだかんだ言っては、ゆり子のことではついつい頼りにしてしまう。涼はすっかりゆり子の前でも、美和子の前でも爪を抜かれた黒豹よろしく、そうなるともはや豹というにはおこがましく、今や飼い猫の黒猫に成り下がっている。




*****

「お前なあ、俺にもっといいもん、おごらせればよかったのに。」

二人はさっさか昼食を終え、ゆったりできるカフェで腰を下ろした。せっかく涼の払いだというのに、美和子は親父たちで賑わう大盛りで有名の牛丼屋で、ご飯をわっせわっせと旨そうに食べた。

「あら、美味しいじゃないですか?あそこの牛丼屋、いつもは混んでるからすごく待たなきゃ入れないし、、今日みたいに人が並んでないなんていうチャンスは滅多にないんですから、食べなきゃ損ですよ。」

確かに一理ある。あそこの牛丼屋は、全国にある有名チェーン店の牛丼屋とはわけが違い、白髪の親父さんが、継ぎ足し継ぎ足しして作り上げる出しツユが絶品だ。その上、牛肉も、全国の名牛を日によって手に入る安価で良質な切り落としを使うのだから、まずいはずわけがなかった。

「お前、これで、つまようじ加えてシーシーしたら、実に似合うよなあ。」

牛丼屋で立ち食いしていても、親父たちと決して見劣りしなかった美和子の食べっぷりを思い浮かべ、涼はクスリと笑った。

「あら、これでもまだ女は捨ててませんからね。ふふん。」

確かに美和子は竹を割ったような男っぽさがあるが、その実、ちょっとぽっちゃりとした肉感的な女であり、年下の男からは人気のある姉御肌である。ゆり子も年下の男子社員から評判がよく頼られているようだ。それ故、SCMフロアーは、ひっきりなしに営業やマーケティングから若い男子社員がウロウロしていたりする。

「で、俺になんかあるでしょ?」
「あれ?ユリタ言ってませんでした?今週の金曜日の話。」
「え?金曜日?」

涼は一瞬、何か忘れていたのだろうかと頭を素早く巡らせる。バレンタインデーにはまだ幾週間あるわけだし、、、と静かに考え込んだ。

「ああ。飲み会ですって。元秘書課の旧姓、結城洋子(ゆうきようこ)さんって覚えてます?」

涼はドキリと胸をおさえた。もうとっくに結婚退職した女だが、実は、
まだ20代前半のときの涼のやんちゃ盛りの履歴にズラリと乗る女の
一人。勿論、何度か寝た女だった。その上いわゆる、、元カノ。

「げっ?倉沢と飲むの?」
「そうなんですって。昔の同期が数人集まって、飲むんですって。」

「へえ。」

「あれじゃないですか?みんな既婚者だから、同期唯一出世頭の現役で独身のユリタを品定めしようって魂胆なんじゃないですか?」
「えっ?ただ単純になつかしくて集まるだけじゃないの?」
「フフフ、女は底意地悪いですからねえ?現在自分の置かれている立場と、辞めずに一生懸命働き続けている女を色々比べたいんじゃないんですか?」
「比べてどうするの?」
「たとえば、自分よりユリタが苦労していて、女としても終わっているのだったら、 『いいわよねえ、倉沢さんは旦那いなくても稼いでるから優雅よねえ?』なんていいながら、内心、ほくそ笑むんでしょうね。」

美和子は身振り手振りをしながら、女落語家よろしく独壇場で、涼は、もっぱら無言で聞き役に徹する。

「で、もしユリタが、自分よりもすごい幸せそうでキラキラと輝いていようものなら、もう、嫉妬の嵐ですよ。きっとユリタやり玉にあげられちゃうかも?」
「お前、底意地わりいな?」
「あら?わたしのイジが悪いわけではなく、一般論ですって。」

「で、お前の見方はどうなの?同期の奴らから、倉沢は見下されるの?それとも嫉妬される方?」

「それをわたしに聞きます?設楽さん?」
「え?」
「最近のユリタ、ほんのりと色っぽくなって、女のわたしでもドキリとすること、しばし。」
「ん?そう?」
「あれえ?気がつきません?設楽さん?」

実は涼はちゃんと感じている。肌をあわせるようになって =涼がゆり子の最初の男だということを差っ引いても= ゆり子はどんどんそこはかな色香を放ち、うっすらと男を誘うフェロモンがうかがえる。ただ、それはちっとも押しつけがましくなく、さわろうとするとスルリと逃げてしまいそうで、狩りの本能を持つ男にとってはたまらない魅力に違いない。

「前は、牧川(まきかわ)君が積極的だったし、」

牧川とは、涼の一応可愛がっている部下の一人だが、27歳の年下男は、何故かゆり子の前をチョロチョロとして、時として涼は煮え湯をのまされることもあるのだ。

「そのほかにもよく若手の男子社員がふらふら〜ってユリタのところに来ていたんですけど、、、最近は、結構大人の男性社員から、モテモテのようですけど?」

美和子は実によく見ている。仕事でも遊びでもゆり子が一番頼りにしている同僚で =ゆり子よりは1年後輩なのだが= ゆり子のことを一番理解している女だ。

「久保川とか、まだしつこい?」

自然と涼の口調に不機嫌さが宿る。久保川とは横浜工場の承認課課長だ。バツイチの男で、仕事中のイヤミ度は半端ないのだが、実はその見た目はそれほど悪くなく、SCMの女子スタッフも文句を垂れながらも無視できない存在なのだ。その男がよりによって前からゆり子にちょっかいを出しているらしい。

「今じゃ、久保川さんだけじゃないです。俵田(たわらだ)部長とか、あと渋めのところだと辛島(からしま)本部長とか、最近やたらユリタを誘って飲みに連れていこうとしてますよ?」

なるほど、最近のゆり子は仕事だけでなく、アフターでも仕事の付き合いの延長で夜の時間が忙しかったわけだ。何だかゆり子に少しだけ裏切られた気分になり、涼はむっとする。勝手なものだ。仕事だとわかっているのに、、、

「フフフ、そんな顔してもダメですよ?設楽さん。設楽さんの過去を遡れば、ユリタを責めるなんてこと、ましてや夜イジメヌクなんてこと、ありえないことですからね?」

美和子に睨まれた。まったく真昼間から何という会話をする女だと涼はため息をついた。確かに美和子の言うことは正論で、若き日の涼の乱れた夜の生活を思い起こせば、世界がさかさまになったってゆり子を責められるわけはないのだ。だが、どうしても面白くないのも事実。だから、ついつい、ゆり子に固執し、セックスで執拗に攻め立て、いつも彼女に難儀させてしまう結果になるのだが、、、

「いいですか?もっと危機感持ってください、設楽さん?」
「あん?」
「今週の金曜日荒れますよ?」
「な、なんで?」
「おして知るべしでしょ? 結城さん筆頭に、神奈川(かながわ)トモさん、木原真理(きはらまり)さん、山坂芽衣子(やまさかめいこ)さん、それから、ユリタと仲良かった柏由美子(かしわゆみこ)さん、と飲むんですって!」

ああ、もう心臓が持たないのではないかと、思わず眉間にしわを寄せ、涼は胸を押さえた。結城洋子をはじめ美和子が羅列した女たちは、若気の至りで、全て味わったことがある。己を慰めるのならば、”柏何とか” のことは涼の記憶にないところをみれば、唯一寝てない女と言える。ところが、、、

「問題点は二つ。まず、結城さんが元カノですよね?」

確かに、寝た勢いで、何か月か彼女面をされたことがあった。涼の眉間にはますます皺が寄る。

「それから一番の問題は、柏さんですよ、設楽さん!」
「え?なんで?俺、知らないよ?」

ここで美和子の瞳が大きくなって、ついで、大口を開けて、驚いているようだ。

「嘘でしょう?」
「な、なに?」
「あれですよ。昔、みんなでの飲み会、ユリタも参加していて、、で、そのユリタの前で、すごく酔っ払って出来上がった設楽さんが、ユリタの隣に座っていた彼女と仲の良かった柏さんとホテルに行っちゃったんですって。」

驚愕の事実に、今度は涼の目が見開いて、息苦しくなった。

「う、うそだろ、、、」

つぶやきながら、嫌な記憶がかすか彼方から蘇ってくる。そうだ、確か、、ゆり子の隣に座っていた女か? 今 思えば、涼は倉沢ゆり子をずっと意識していた気がする。女となればカタパッシから食っていた涼にとって =もちろん後腐れのない女に限定はしていたが= 唯一ゆり子には手を出さなかった。涼がゆり子の視線に気づくと、あのキリリとした瞳とまなじりをあげ涼をいつも睨んでいた女。ゆり子に睨まれるとゾクリとなった。だが、最後まで、彼はゆり子に手を出さず、そうこうしているうちに設楽涼のやんちゃ時代は過ぎて行ったのだ。

そして先の ”柏なんちゃら” のことが、涼の頭にフラッシュバックされた。飲み会のとき、ゆり子の刺すような睨む視線に、どうにもこうにもならなかった涼。敢えて、隣の女に猛攻をかけた。結果、朝ホテルで目覚めたとき、その女が隣で寝ていた。詳細については何も覚えていなかった。涼の記憶貯蔵庫には保存されず、事実の目録だけが上書きされ、詳細については以下省略となっていた。まったくご都合主義の勝手な涼の記憶貯蔵庫である。

「やばい、、思い出した、、、つうか、、顔も覚えてないけど、、、」

涼の長い指先が唇を神経質そうに撫でる。

「いやだ、最低ですね?設楽さん。」
「、、、、」

まったくもってぐうの音も出ないのである。

「でもまあ、時効っていやあ時効ですけどね。フフフ。」

これだから美和子はいいやつなのだ。確かに、乱れた下半身事情は涼が入社して数年間の話で、もうかれこれ10年以上も前の話である。

「だよな?」
「と わたしだったら思いますけど、、、あの柏さん、、結構厄介な人でしたよ?当時、、」
「え?」
「ユリタに、一部始終設楽さんのとの夜の話をご丁寧にしていたし、自慢してたし、、何故ユリタがあの人と仲良かったのか、わたしには謎でしたけどね。」

嫌な予感がした。出来れば今週の金曜日の飲み会、ゆり子は欠席しないだろうか?あるいは仕事で行けなくなる可能性というのは、、、考え込みながら、自然と指先で額を軽く抑える。その姿は、色っぽい憂いを帯びた男であり、どうしてもカフェ中の女性の目がハートになって注がれていく。

「そういう顔、たまらないですよ?ユリタもきっとコロリかしら?ふふ」

などと美和子に弄られても、涼はジョークを返す気にもなれず、気持ちがげんなりしていく。とにかく、今夜、ゆり子の部屋に行こう。涼は最後のコーヒーを飲みほした。

 


設楽涼、何やらちょいピンチのようですが、
果たしてどうなりますことやら、、、
アルファポリスサイト様恋愛小説大賞参加記念祭り〜
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