番外編:黒猫の受難

1.

「倉沢さん」
 

黒い瞳をキラキラさせながら、倉沢ゆり子のもとにやってくる牧川は、まるで、ご主人様を見つけてバタバタと短い尻尾を振りちぎりながら走ってくるトイプードルのようだ。SCMフロアーの女たちは、忙殺される業務に少しだけ手を休め、微笑みながら、このトイプーこと牧川瞬(まきかわしゅん)の行方を見守る。

「さっき日比野にも話したんですけど、タラウマラオイルの出荷をどうしても前倒ししてほしいんですが、、、」

日比野サチは現在SCMでメキシコ担当であり、牧川と同期の入社3年目である。見た目のかわいらしさとは裏腹に実にサバサバ系で、フロアーではゆり子にも美和子にも、公私ともに信頼され可愛がられていた。

「牧川、あのさ、エステルと話したけど、10日の前倒しは無理だって言われた。」
「じゃあ、何日前なら可能かな?」
「生産が追いつかないから、どう頑張っても予定の4日前のアレンジだって。」
「、、、、」

牧川は無言になって、製品が日本に到着してから、実際の顧客への納品可能日までの日数を換算しているようだ。ゆり子がすぐに声をかけた。

「ってことは、今月の28日のフライト着ね?」
「はい。書類不備や突発的事故がなければ、乙仲に話を通して、最短で製品を出してうちの倉庫に同日夜入れてもらいます。でも、、」

日比野がハキハキとした口調から、急にトーンダウンした。

「あれか、承認課の久保川課長か?」

うんざりした顔で牧川が言えば、ゆり子も日比野も無言で頷いた。ただでさえも倉庫に入ってから、3日で出庫しなくてはならないタラウマラオイルの出庫準備期間が短かすぎると、イヤミたらたらの男なのだ。ここで、今回の出庫に限り、1日で品管検査・承認・納品でやってくれなどと頼めば、どんな厭味ったらしいことでネチネチと言われるか、たまったものではない。だが、ゆり子はぐずぐずしていなかった。

「りっちゃん、悪いけど、今月25日から28日までに横浜倉庫に入庫予定の製品一覧 出しといて。」

リっちゃんと呼ばれたスタッフが即座に返事をして、入庫表作成にとりかかった。美和子も心配してやってきた。

「これで久保川っちがダメー!!なんてイケズなこと言ったら、まみ、アンタ、わかってるね?」

美和子は笑いながら早乙女まみを見た。外見はそれほど悪くない久保川の対策として、前から早乙女まみが、『人身御供になります!』とジョークまじりに立候補をしていたのだ。

「はい!頑張ります!まみ、こんなときこそみなさんのお役にたちます!」

ぶりっこさながら、両手をニギニギして、フロアーを笑わせた。ゆり子の綺麗な切れ長の目が優しく笑いながら、牧川に向かって、大丈夫よ、と告げていた。その瞳は慈愛にあふれていて、牧川の胸がトクリと跳ねた。


結局緊急出荷の件はギリギリセーフということで、顧客の希望通りの納品日の運びとなりそうだ。胸をなで下ろした牧川は再びSCMのフロアーに姿を現した。

「倉沢さん、本当にありがとうございました。」

久保川はまったく予想を裏切らなかった。鬼のようにSCMの前に立ちはだかり、日比野ではたちうできるはずもなく、最後はゆり子があの手この手を使い、最終的に、理詰めで久保川に白旗を上げさせたのだ。

「頑張ったからねえ。ユリタもねえ?」

美和子が牧川にねぎらいなさいよね、と言わんばかりだ。ちなみに、美和子は仕事中は絶対に公私混同をせず、『倉沢さん』と呼ぶのだが、すでに就業時間外の上、相手は気心の知れた牧川である。フロアー全体も、先ほどの緊迫した空気とは異なり、かなりリラックスムードに包まれていた。

「はい、そう思って、今日は飲みましょう。倉沢さん、僕におごらせてください。」

牧川がにこにこしながらゆり子を誘う。

「わたしだけじゃないのよ? サチやりっちゃんも頑張ってくれたから、、」

実にゆり子らしい。そう言うと思っていた牧川は勿論迷惑をかけてしまった日比野やりっちゃんも初めから誘うつもりでいた。

「あっ、すみません、倉沢さん、今夜だめでえす。」

日比野が口を挟んだ。彼女は、ゆり子に見られないようにリっちゃんをつつき、目配せをする。

「今日はわたしたち合コンであります。」
「えっそうなの?」

ゆり子が困った顔になった。

「じゃ、別の日にしようか? 牧川君?」

今度は、途端に牧川の顔がシュウンとなる。トイプーが黒い鼻をフガフガしてクウンと鳴いたようだ。

「倉沢さん、せっかくだから、牧川の顔立ててやってくださいよ?」

日比野が牧川に助け舟を出した。牧川は再び瞳をキラキラさせゆり子の答えを待っている。こんな期待に満ちた瞳で待たれていたら、鬼でない限り、何人なにびとたりとも断れるはずもない。もちろん、ゆり子だって鬼ではない。

「じゃ、お言葉に甘えようかな?」
「やった!」

思わずガッツポーズをする牧川に、日比野がサインを送った。

【アンタ、借りだからね。】
【わかってる。今度埋め合わせするから】

同期の二人は、無言でそんなやり取りをしているようだった。



*****

「倉沢さん、今夜は、お好きなワインをどうぞ。」

牧川がゆり子を誘った場所は、当然世界各国のワインがズラリと揃っているワインバーだ。もちろん、洒落たツマミもメニューを飾り、ここならば、飲みながら腹ごしらえも出来る。レストランだと、食べるのがメインになってしまうが、こういう店ならば、飲みながら、語り合いながら、ツマミながら、気取らずに楽しい時間が過ごせそうな空間だ。当然ここも美和子のアドバイスである。

椅子がとても座り心地がよくてゆり子は背もたれにゆったりともたれかけた。おりしも明日は土曜日、ならば、今夜は飲みましょうと、牧川はボトルで頼んだ。

「何か、悪いわ。」
「大丈夫です。僕、そのつもりでしたから。」
「でも後輩におごってもらうなんて、、、」

ゆり子の顔が一瞬困った顔に見えた。二人はテーブルを挟んで座っている。薄暗い店の中でも、落ち着いたダウンライトが優しく店内を照らす。お互いの表情がわかるには十分な明るさだ。

「仕事では、倉沢さんに、お世話にもなるし、僕は若輩者ですけど、、でも時間外なら、少しくらい僕にも、いいとこ見せるチャンスぐらい下さいね?」

まっすぐな瞳で見つめられ、ゆり子は思わずクスリと笑う。突然、二人を遮るくらいの大きな影が落ち、ゆり子はあわてて顔をあげた。

「年下じゃ頼りないなら、じゃあ、俺がおごるぜ?」

「し、したらさん、、」

牧川がびっくりした声をあげれば、ゆり子の瞳も大きく広がった。

「谷に聞いた。今日はSCMに随分と迷惑かけたみたいで、、」

いつもなら絶対に笑顔をたやさないはずなのに、珍しい事に、設楽涼の切れ長の瞳が笑っていない。一重の眼力ある瞳は、ゆり子を睨んでいた。

「どうしたんですか?」
「ん?偶然。俺、さっきまであそこで飲んでたら、お前達が入ってきたからね。」

牧川の問いかけに、少しだけ余裕が出たのか、やっと笑みをたたえ、だが、涼はシラッと答えた。第一、偶然なはずがない。谷美和子がけしかけたのに違いないのだ。



『設楽さん、ユリタって情の深い女ってもう知ってますよね?』
『、、、、』

『ああ、今夜、、やばいかもねえ?』

何とも思わせぶりな美和子の言葉に、涼には胸騒ぎが、、、今夜こそ牧川をとっ捕まえて、ガツンと言ってやろうと思っていた矢先なのだ。『悪いな、倉沢ゆり子と俺、つき合ってるから』と。だが、珍しく涼が一歩出遅れた。会議から戻って来てみれば、牧川の机はすでにもぬけの殻。ただし、出来る部下らしく、上司への報告は忘れない。たとえそれがメモであっても。

【タラウマラオイルの納品日、問題なく予定通り間に合いそうです。お疲れ様でした。牧川。 19:32】

つまりは、SCMが全面でバックアップした。大方 倉沢ゆり子がかなり牧川に手を貸したのだと、涼は容易に推察する。勿論課長としての涼にとって、ありがたいことだ。牧川担当の顧客は結構な大口。けれど、、、倉沢ゆり子の男としてなら、、、、涼は、丸っこい字で書かれたメモ書きをじっと見つめた。

『チッ』

舌打ちもしたくなる。時間を見ればタッチの差のようだ。今夜牧川を誘えず、なんだか肩透かしをくらってしまったなどと思っているときに、谷美和子がフロアーに入ってきて、先のご注進を申し上げにやって来た。その上、彼女は、ちゃんとゆり子と牧川がどこで飲むのかという情報も流してくれたので、涼はあわてて社を出て目的地へ向かったのだ。運よく、二人よりも一足先について、カウンターで飲んでいたところ、二人が楽しそうに店内に入ってきたというわけだ。オマケに、涼が座っている後ろを通って行ったのである。ゆり子や牧川にしてみれば、よもや涼がいるとは思わないわけだが、設楽涼にしてみれば、無視されたようで、ますます気に入らない。



「ここ、いい?」

などと聞いてみるも、たとえダメだと言われたって知ったこちっゃない、涼は二人の答えを待たずにゆり子の隣に腰をおろした。ゆり子の肩に少しだけ力が入ったような気がした。

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