黒猫の受難

2.

「設楽さんは、今夜お一人ですか?折角の金曜日なのに?」

設楽涼ともあろう男が、花も連れずにひとり酒とは、という揶揄が牧川の言葉に含まれているのか。だがすぐに付け足した。

「でも、設楽さんなら何やってもサマになるからな。羨ましいです。」

すぐに人の懐に飛び込んでくる、人なつっこいトイプードル、恐るべし。涼は牧川の問いには答えずゆり子に話しかけた。

「どこの、飲んでるの?」

赤ワイン好きのゆり子だから当然ワインを頼んでいるのだが、涼はどこの産地のものなのか聞いている。

「ああ、これ、、、南アフリカ産です。」
「えっ?」

涼がびっくりして、眉根を上げた。

「美味しいですよ。ふふ、たまには冒険もいいかも。」
「よかったあ。」

牧川はゆり子の満足そうな表情にほっとしている。実は、ゆり子がいつものように飲みなれているスペイン産のワインを頼もうとしたのだが、牧川の素っ頓狂な声に心が動いたのだ。


『えええ?南アフリカもワインって有名なんですねえ。知らなかったです。えええ、どんな味なんだろう?』


「設楽さん、南アフリカのワイン飲んだことあります?」
ユリ子の淡々とした口調が何故か腹立たしい。

「ああ。前にね。けど、俺はあんまり好みじゃなかった。」

涼は、はっきりと拒絶の言葉を出した。少しばかり大人げない気もするのだが、、、

「じゃ、飲んでみて?きっと悪い印象変わるから。」

ゆり子は涼が不機嫌だということに気がつかないのか、無邪気に南アフリカ産を勧める。ワインの話になるとゆり子は少しばかり熱を持ち、いつもより饒舌になるのだ。ゆり子のキリリとした瞳は、今は穏やかに涼に笑いかけていた。たまらない。こういう顔を突如としてこの女はするのだ。

(勝てねえな、、ったく。)

「じゃ、一杯もらおうかな?」

一応牧川にも礼を尽くし、彼の顔を見た。

「どうぞ、どうぞ、設楽さん。マジ、今夜は僕のオゴリですから。」
「よし、わかった。サンキューな。」

涼はゆり子の笑みに気をよくしたのか、いつもの調子で、牧川に笑いかけた。

「その代わり、2本目からは俺がおごるよ。」
「じゃ、3本目はわたしがおごりますね。」

3人で一本のボトルを開けるのは容易い事で、あっというまにボトルは空になる。今夜はゆり子は飲むつもりらしいから、おそらく、続いて、2本、3本という流れになるだろう。牧川の顔もたてて1本目はおごってもらうことにしたが、あまり年下には負担をかけたくないという配慮を、涼もゆり子も持っていた。勿論涼にとって牧川は部下でもあるのだから。幸い、南アフリカ産は比較的安価なのだ。

「へえ、美味いな?」

涼は牧川に注いでもらったグラスに鼻を近づけ、香りを楽しんでから一口飲んでみた。確かに美味かった。

「でしょう?」

ゆり子の目が細められ、少しだけ得意げな顔をする。ドキリ、こんな顔にもやられてしまう。だいたい昔から涼は、大方の女が言う、『だから言ったでしょう?』の類が好きではない。けれど、ゆり子の口から紡がれる言葉には、魔法があるのか、涼の心をとらえて離さない。こんなのでは心臓がいくつあっても足りなくなる。ゆり子の前だと涼もただの男と化してしまうのか。

「設楽さんもワインが好きなんですか?」

甘い空気に酔っているそばからトイプーがカマって、カマって攻撃をしかけてくる。

「俺?別に何でもいけるけど、最近はワインが多くなってるかも、、、なんせ倉沢と飲むときは、こいつが他の酒飲まないから、まあ、大概ワインだもんなあ?」

ゆり子と頻繁に飲むことを牧川に知らしめてやる大人げない設楽涼。だが、牧川だって負けてはいない。

「そうですよね。僕も倉沢さんとお酒をご一緒させてもらうようになって、ワインの味を覚えました。」

涼は、牧川から何とも可愛らしい笑顔を向けられた。同性から見ても、実に可愛らしいと思う素直な笑顔だ。涼には逆立ちしたってこんな笑顔を作れそうにはない。

(はああ、)

額を長い指先で触りながら、参ったとばかりに、思わずため息が漏れた。少しばかり憂いのある表情をさせた涼は色っぽい。隣に座っているゆり子は心配そうに顔をのぞきこんでくる。

「何かありました?今日の会議、意地悪言われました?」

子供に言うような、優しい口調だった。涼の俯いていた目線が、ゆっくりと上げられ、ゆり子を視界にとらえた。

「心配?」
「えっ?」

牧川がいるにもかかわらず、よもや涼がこんな返し方をしてくるとは思ってもいなかったのだろう。ゆり子は驚いた顔をしていた。
 

「いえ、何もなければ、、」

驚いていたのは数秒だったが、すぐにたて直し、ゆり子はいつもの口調になった。だいたい、この女は涼と恋人関係になっても、ちっとも変わらない。もっと甘えてほしかったり、わがままを言ってほしかったり、涼は不満が募る。だが、実際、昔の女たちからそんなことをされ続けられたアカツキには、涼は即効女たちと、サーッと距離を置いていたに違いない。恋という魔物は実に厄介だ。その上、ゆり子はどうやら、社内に涼とのことを知られるのをあまりよしとしてないフシがある。勿論涼だっておおっぴらに社内に吹聴しようとは思ってないが、要所要所は押さえておきたい、それが涼のホンネだ。実際、今のところ涼とゆり子の関係を知っているのは、谷美和子と、この間の飲み会で話をしたばかりの北村だけだった。ということは、当然牧川も知らないわけだ。涼はまあ、いいかと思う。今の彼女の態度からでも、一応涼のことを心配してくれた様子がうかがえたし、少しずつゆっくりではあるが、二人の関係は前進しているようだし、何より、惚れた弱み、コレに尽きる。


*****

今日はゆっくりと飲むつもりのゆり子で、涼も牧川もそのペースに付き合う。一応外見は大人たちの集まりで、ソツのない会話で時間が流れていく。やがて、いつのまにかワインも3本目が開けられ、そしてそのボトルも残り3分の1というところ。牧川はすっかりオネムモードのようで、先ほどからあくびをこらえ、頭がユラユラ揺れている。あくびをするたびにそのクリクリとした黒い瞳が濡れて、何とも可愛らしい。

「お前、飲みすぎじゃないのか?」
「だいじょうぶっす。」

頭をガクンとさせて牧川は答えた。涼はゆり子に目配せをする。

「帰るか?」

その声にまた、牧川は『だいじょうぶれす。』と答えるが、さすがのゆり子も心配のようだ。

「それでは化粧室に行ってきます。」

ゆり子は帰り支度のために立ち上がった。残されたのは、孤高を保ち、生まれながらのハンター、黒豹と、誰かの庇護がなければ生きていけないトイプーだ。牧川は、ともすればフネをこいでしまい、ガクンと頭を垂れて、あわててまた寝ないようにと目をギュッとつぶり、頭を振った。さっきからその繰り返しで、だが、その様子がなんとも健気で微笑ましい。涼でさえも、恋敵ということを忘れ、思わずほんわかとした気分になった。だがその刹那、敵はいきなり攻撃をしかけてくる。

「僕、、倉沢さんが好きっす。大好きっす。」
「な、なんだよ、いきなり。」

突然の先制パンチに涼はあわててヒョイと攻撃をかわす。

「何言ってんだよ、年だって結構違うだろ?」
「年ぃ?」

牧川の目が座った。

「たった6歳しか違いませんよ。お、俺、恋人がいてもいいんです。っていうか、あんな素敵な女(ひと)に、彼がいないほうがおかしいんっすから。」

すでに自分のことも『僕』から『俺』に変わり、牧川が吐き出す言葉は、恐らく酔っているからこその本音だと言えた。だが、それが涼への牽制なのか、それとも単なる一般論なのか、涼は未だ牧川の真意を測りかねていた。

(こいつ知ってんのか俺たちのこと?)

涼は少しだけ探りを入れてみる。

「だけど、それって、あれだ、万が一、その彼女に恋人がいた場合、、、そこに、、その仲に割り込んでくるのってえのは、、牧川、ルール違反だろう?」
「何ですか?設楽さん、犯罪だっつうんれすか?」

すでに牧川のロレツは回らない。

「結婚してても寝取らら(ねとられ)話なんて、ザラなんっすから、恋人くらいれ(くらいで)、俺、諦めませんから。」
「まぁな、、犯罪じゃないだろうけど、、」

愛らしいトイプーの瞳はもはや、焦点が合わず、トロンとし始めている。酔っ払いに何を言っても無駄なことは涼は経験からすでに学んでいたので、牧川の言うことは戯れごととして、軽く受け流すことに決めた。

「それに、設楽さんにだけは、い、言われたくないっす。」

ところが牧川のほうが未だ食い下がってくる。頭がユラユラと動いている。どうやら勝手に体が動いてしまうようだ。

「だって、今でこそ噂、、鎮静化っすけど、、あれ、絶頂期には、人のモノなんらろうと(なんだろうと)、お手をつけてたって、、えっ?どうなんれすかっ?!」

人差し指をバンと涼の目の前に出す。確かに、なのだ。今さら、人のモノを取るな!などと言えた義理ではないのだ。こんなにも酔っている牧川なのに、さすがに涼の痛いところをついてくる。涼は額をさすりながら、ため息をひとつ漏らした。その態度がどうやら牧川には気に入らなかったようだ。

「なんれすか? こっちは真剣なんれす。その余裕、、いいすっか?アンタ、アンタはですよ?俺のずっと大切な想い人を奪ったあの男とダブるんす!いいすっか?俺の片思いのおおお、」

今度はクシャリと顔を歪めた牧川は今にも泣き出しそうに見えた。体を揺らしながら、頭をガクンと垂れた。

「おい。」

案の定、牧川は肩を震わしている。

(やべえ、コイツ、カラミ酒の次は泣き上戸かよ?)

そしてタイミングの悪いときに、ゆり子が戻ってきた。

「お、俺は、う、うっ、頑張っれ仕事もおおっ、うう、、」

もはや何を言っているのかわからない。ただ、黒い瞳がキラキラ濡れて、25歳の男のくせに手で目をぐりぐりする。

「ど、どうしたんですか?」

ゆり子はビックリした様子で二人に近づきながら、涼の顔を見た。涼はまるでゆり子に責められているような気にさえなる。

「どうしたの?牧川君?」

泣いている牧川を覗き込んだ。涼の胸がキリリとなる。

「単なる泣き上戸だよ。」

涼は冷たく言い放つ。ゆり子と再び目が合って、どうやら彼女は涼のそっけなさに納得がいかないようで、睨んでいる。ゆり子の目は睨むと、その瞳に怒りの感情がともり、深い色をおびる。凛とした瞳に鋭さが加わり、こんなときでさえも涼はゾクリとなってしまう。

「倉沢さん、お、俺、、頑張りますから、、本当に、、だから、、俺のこと、、、」

/こてん/

泣きながら、いや最後は泣きじゃくりながら、牧川は酔っ払いの船で沈没していった。

「ふっ。」

ゆり子の口から吐息がもれた。先ほどまで涼を睨んでいた瞳が優しく細められている。

「おい、倉沢、お前コイツ見て今可愛いとか思ってんじゃねだろうな?」
「いけませんか?」
「フン。」

涼はかなり面白くない。もうこなれば、後はとっとと牧川を片付けて、ゆり子と二人になるだけだ、涼は頭をフル回転させる。

「ええと、こいつの家は、、」

必死に思い出そうとする。だがいっこうに記憶の扉が開かない。というより、思い出せない。いや、むしろ、、

「げっ」

「どうしたんですか?」
「俺、コイツの家知らない。」
「ええ?」
「参ったなあ。」
「確か、杉並の方だとは聞いてますけど、、住所までは、、」
「チッ、」

涼は舌打ちをする。それはあたかも牧川の家も知らないゆり子に対して責めているように聞こえるだろうが、実はその逆。牧川に関するデータをゆり子の頭から一切合財削除してやりたい。だが、ゆり子はどうやら前者と受け取ったようだ。

「設楽さん、牧川君は、あなたの部下なんですから。彼の住所くらい、どっかに保存してないんですか?」

ゆり子の目が冷たくなった。

「は?会社行けばわかるけど、普通、友だちじゃないんだし、そんなもん知らないだろ?」
「お得意のアドレス帳には入ってないんですか?」

ゆり子は涼の瞳を睨んだ。これはゆり子の皮肉。前に、スマホのアドレス帳が結構な容量をくっているという話をしたときに、ゆり子がそんなに知り合いがいるのかと驚いていた。



『まあ、昔の奴らを消せばいいんだろうけど。』

 

と言う涼の言葉を、昔の寝た女たちをズラリと消せば、かなりの容量が出来るのだという風にゆり子の頭で変換されていき、

 

『随分、物持ちがよろしいんですね。』

 

と皮肉を言われたのだ。



恐らく今の彼女の一言は、スマホの、その莫大な容量を占めているアドレス帳のことを示唆していると思われた。

「入ってねえよ。牧川のなんて、、」

痴話げんかもここまでで、もともと頭のよい二人は、現在の置かれている優先順位を思い出す。今、この状況をどうすべきなのか。

二人は同時にしゃべった。

「設楽さんのところへ泊めてあげたらどうですか?」
「どっかのホテルに追いてっちまおうぜ?」
 

「「えっ?」」

同時に言葉を発し、同時に驚愕する二人。どうやら相性はいいようなのだが。

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