黒猫の受難

3.


「何でうちなんですか?それも設楽さんまで。」
「だって、倉沢と牧川二人っきりにしとくわけいかねえじゃん。」
「だったら設楽さんの家に泊めてあげればよかったじゃないですか?」
「だったら、倉沢も一緒に来た?」
「何でわたしが行くんです?牧川君だけ泊めてあげればよかったでしょう?」
「だから、それがいやだ。」
「はい?」

「俺、今夜倉沢といたいし、、」

「はい?」
「だったら、倉沢んちに一緒に来るしかないでしょう?」

ゆり子にすれば、何とも理不尽な話だろう。

結局、ゆり子の家に、牧川を連れて涼は強引にやってきた。連れてというのは言葉のあやで、実際は、若いことがアダとなりいくら起こしても目を覚まさない牧川を涼がおんぶして面倒を見てやったのだ。牧川が起きたアカツキには、これをネタに当分イジメテやろうと、涼は密かにほくそ笑んだ。牧川を居間のソファに寝かせ、ゆり子はかいがいしく世話をしている。牧川の形の良い頭を、ゆりこの白い手が触れたとき、涼が唸った。

「触るなよ。俺がやる。」

彼女の手を払いのけ、無造作にガシっと牧川の頭を上げ、その下に枕をいれてやる。このくらいのことではビクともしない牧川の眠りは深い。

「設楽さん、もう少し、優しくしてあげないと、、んん」

しのごの言うゆり子にいきなりキスをする。

「ちょ、、ちょ、っと、、」

あわてて頭を振り逃げようとするゆり子の後頭部をがっしりと大きな手は離さない。涼だって眠っているとはいえ、部下の前だ。これ以上破廉恥なことをするつもりはない。だが、ゆり子にメロメロの気持ちが、こうも嫉妬心を煽る。ゆり子はやがて暴れる事の方が牧川が起きる危険があると思ったのか、涼のされるがまま、大人しくなった。ゆり子の唇に熱がこもり、瞳も濡れ始める。

(やばい。)

逃げようとする自制心を何とか追いかけて、やっと涼はゆり子の唇を開放する。

「はあ、はあ、」

肩で小さくゆり子は息をしていて、唇もはれぼったく見える。誘っている。そう見えてもおかしくないゆり子の色めいた顔に、涼は顔を背けた。中学生のガキのようにガツガツしている内心を抑えて、涼はまるで余裕を見せた仕草で髪をかきあげた。

(本当に、参った、、)

ゆり子は何も言わず、そのまま台所へ飲み物を取りに消えていった。


*****

まったくついてない。折角ゆり子の部屋に来ているのに、彼女に指一本触れられないとはいったい誰のせいなのだろうか。涼はキッチンカウンターに座り、居間のソファで幸せそうな顔で寝ている牧川を恨めしそうに睨む。

ドリップコーヒーが先ほどシューシュー湯気をたて、最後の力を振り絞り、滴をポトリ、ポトリと落としていた。コーヒーの香りが鼻をくすぐる。

/コトン/

目の前にマグカップが置かれた。白地に青いラインが横に2本入っているシンプルなでデザインで、とても持ちやすい。涼はすでに何度もこのカップで心地よい朝を迎えていた。

「ん?ありがとう。」

対面式キッチンカウンターに座っている涼の目の前に、ゆり子の華奢な肢体が立っている。彼女は、リラックスした部屋着に着がえて、髪も無造作におろしている。涼の好きなゆり子の姿のひとつ。だが、明日の朝、牧川に、こんな無防備なゆり子を見せるのだけは絶対に阻止しなければ、そんなことを思いながら、ゴクリと一口のんだ。涼の喉仏が上下に動く。ゆり子と目が合った。彼女はあわてて目をそらしたが、耳が赤く染まっている。

(たまんねえな、本当に。)

下手をすれば、とめどない欲情に流されそうになる。涼は意味もなくまたコーヒーをまた飲んだ。

「お前さ、牧川たらしこんでんじゃねえよ。」

さらりとかっこよく言うはずが、すっかり余裕のない嫉妬にかられた男のような口ぶりになってしまった。

「た、たらしこむって、、、」
「牧川、年上が好きなんだってよ?」
「ああ、ずっとずっと思っていた3歳年上の女の人ね、もう結婚してしまった、、、」

やっぱりゆり子の瞳はどこまでも優しく、居間で寝ている牧川に視線を移した。

/コトン/

ゆり子が手にした自分のマグカップを置いた。彼女のカップも白地に青のラインが2本入っている涼と全く同じカップだ。涼と関係を持つようになって、何度も涼が訪れるこの部屋に、ある日新しいマグカップが2個置かれていた。どうやらゆり子が買ってきたらしい。それを見つけたとき、ゆり子が涼の居場所をちゃんと作ってくれたようで、なんだか甘酸っぱいような気恥しいような、そんな気持ちになった。ペアを買ってこないところが実にゆり子らしかった。けれど、合理的な女なくせに、すでにセットのコーヒーカップセットを持っているくせに、あえて2個同じマグカップを買う。ゆり子らしい心使い、そしてゆり子なりの涼への想いをその揃いのマグカップに見た気がした。

「設楽さん、、、どこで寝ます?」

涼は現実に引き戻された。知らず知らず、ゆり子の細くて白い華奢な指先を目で追っていたのだ。

「あ?倉沢の寝室?」
「あっ、じゃ、シーツ変えますね。」

どうやら涼がベッドでゆっくりと一人で眠りたいと勘違いしたゆり子が、あわててキッチンから出てきた。涼は逃がさないようにスっと立ち、ひょいと彼女の腕を掴んだ。

「いいよ、変えなくて、だって一緒に寝るでしょ?」
「ば、バッカなこと、い、言わないでくださいっ。」

ゆり子が真っ赤になったのを見て、涼は少しだけ余裕を取り戻した。美しい唇の端をくいっとあげて、この上もなく色っぽい瞳で熱くささやいた。

「だめ、、かな?」

一瞬時が止まったような、沈黙が流れる。ゆり子が固まったのが分かった。だがすぐにゆり子の口が開く。

「だ、ダメに決まってます。牧川君だっているのに!」
「くっくっ、冗談、面白いんだよなあ、倉沢って滅多にあわてふためかないからさ。」

綺麗な一重の瞳が、ゆり子を狙ってウィンクをする。

「もう、こんなとき、冗談はやめてください。設楽さん、本当にわたしのベッドで眠りますか?なら、やっぱりベッドメイキングしなきゃ、、」

ゆり子の挑戦的な瞳に再び睨まれた。

「なあ、倉沢?」
「は、はい?」
「お前さ、牧川に言っとけよ。」

さっきまでのふざけた空気とは違い、涼は真剣な眼差しでゆり子を見つめた。

「何をですか?」

飄々と答えるゆり子に、涼の感情が波立った。

「だから、俺たちの事、」
「、、、、」
「俺と倉沢のこと、特別だから、、、俺の特別だから倉沢は、、、」

涼は言葉に出しながら、胸に熱くこみあげるものを感じる。これが情熱なのだろうか。これが愛情というものなのだろうか。胸の奥からわきあがる初めての心の感触にとまどいながらも満ち足りたものを感じ取る。

「言いました。」

涼の言葉を遮るように、ゆり子がつぶやいた。

「牧川君に言いました。設楽さんのことが好きだから、だから、、、
わたしの心はもう設楽さんでいっぱいだからって、、」

「えっ?」
「言ってはいけませんでしたか?」

ゆり子は困ったように、目を細めた。

「い、いや、違う。」

涼は動揺していた。これはまったく想定外のことだ。まさかゆり子の口から真実を告げるとは想像だにしていなかった。どちらかといえば、彼女は涼との関係をひた隠しにしたかったのではないだろうか。それなのに、彼女は牧川にちゃんと話したという。しかも、わたしたちつきあっています。ではなく、ゆり子が涼を好きだから、、牧川の気持ちが入れないくらい涼のことを思っているのだ、、と。涼の鼓動が、トクリと跳ねる。無言の涼に、ゆり子は自分のしたことが迷惑だったのかもしれないと感じたのか、すみません。と付け加えた。

「違うよ、倉沢。驚いただけ。俺、倉沢は俺とのこと隠したいと思っていたから、、」
「ふっ?それって設楽さんの方ではないんですか?」
「えっ?」
「わたしたち、、が、、別れても、、後腐れが残らないようにっていう配慮で、、」

ゆり子の声音が心細く震えていた。もう涼は知っている。これはゆり子の虚勢。だから、思いっきり優しい瞳を向けて、ゆり子に語りかけた。

「今までの俺ならそうかもな?けど、倉沢は違うじゃない?だって俺の特別なんだから。俺、離さないから、、倉沢が俺から逃げようとしたって、絶対この手を放さない。」

涼は掴んでいたゆり子の手をさらにぎゅっと握った。

「たまんないな?倉沢って、、」
「えっ?」
「かっこよすぎて、まいる、、、」
「、、、、」
「俺の方が何だか女々しい、、、、」
「何言ってんですか?」
「いや、ちょっと感動。まじ感動。」

そうなのだ、ゆり子はちゃんと牧川に涼とのことを伝えていた。滅多に自分のことをしゃべりたがらない女が、真摯に気持ちと向き合ってくれていた。胸に来た。あまりの嬉しさと充足感で、涼はとろけそうな顔になる。

「お前、かっこよすぎるんだよ。」

「そういう設楽さんは、ちょっとかわいいですものね?」

ああいえばこういう、まったく口の減らない女だ。

「なんだよ、それ?」
「ふふふ、時々猫みたいって思います。ちょっと気まぐれな、、でも寂しがり屋で、甘えるときは、主人を探してミャーミャー鳴きわめく?そんな可愛い猫ですかね?」
「なんだよ、それ?」

黒豹はいつのまにかゆり子の手に落ちて、すっかり爪を抜かれてしまった。彼女の手の中で、自由に生きて幸せを感じているわけで、、

「なあ、やっぱ、だめ?」

涼は上目使いで、ゆり子の母性本能に訴える。

「なあ、ちょっとだけなら、、」
「だめです。」

「じゃあ、何もしないから一緒に眠ろ?」
「牧川君に見られたらどうするんですか?」
「俺のこと猫だって言えよ。とても大事に飼ってる猫だって言えば?」

「ふふふ、そうですね、、、」

ゆり子はあえて逆らわなかった。ただ、微笑んでいた。その瞳はいつもの睨むゾクリとする瞳ではなく、とても穏やかな優しい眼差し。愛する女が傍にいてくれるだけで、もう何も要らないんだよな、などと、今、涼はそんなことを思っていた。



*****

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっ、、」

人は驚いたとき、言葉にならない何かを連呼するのか。昨晩からぐっすり眠った牧川も、その朝、両手をギュッと握り『ううん』などと気持ちよさそうに伸びをして、おや、何だかちょっとぱかり背中が痛いかな?などと思いながら目を開けて、、、固まった。
見慣れない天井。寝ていたと思っていた家具はベッドではなくソファ。しかもまあたらしい革の匂いがする。そして、、

「し、したらさん?!」

自分が横になっていたソファの下に座って、ソファの淵によりかかっている男。ワイシャツのボタンをかなり開けて、腕まくりをしている筋肉の張った腕を組んで、下を向いている。牧川があわてて上半身起こしたその角度からも、涼の長い睫毛が見える。涼は目を閉じてどうやら眠っているのに違いないのだが、何故ここに、設楽涼がいるのか?いや、それよりもここは、いったい?

牧川は少しばかりズキズキ傷む頭を抑えながら昨夜の記憶をたどる。

「牧川君、、眠れた?」

その場の空気にスッと溶け込むような声が聞こえ、同時に、牧川はゆり子の顔を思い浮かべた。はっとして、声のする方に顔を向ける。

「大丈夫?」

ゆり子は心配そうな顔を向けた。彼女はキッチンで働いている手を休め、グラスに水を入れ、牧川のほうへ近づいた。

/コトッ/

ソファの傍にあるコーヒーテーブルに、そっとグラスを置いた。白い指先を口にあて、静かな声で牧川に話しかける。

「薬、何か飲む?」
「い、いえ、、」

思わずひっくり返るような声を出して、自分で諌めるように肩を竦めた。どうやら涼を起こしてしまったのではないかと思ったらしい。だが涼は静かな寝息をたてて、ソファによりかかって微動だにしない。

「大丈夫です、、あの、、、僕、、、ここは?」

小さな声で、牧川がゆり子に助けを求める。

「あとにしましょう。今はもう少し寝かせたあげましょうか?」

彼女の視線は寝ている涼を見つめ、それから牧川に目配せをした。

「ん、、ん?」

どうやら、こんな囁き声ですらも涼の意識はゆり子に反応するらしい。ゆっくりと目を開ける。まぶしそうに目を細め、最初にゆり子を視界にとらえて嬉しかったらしく、にこりと優雅に微笑んだ。昨夜の懸念は全くの徒労で、今目の前にいるゆり子は、うっすらと化粧をして髪をバレッタでざっくり束ねシニヨンに、着ている服こそジーンズとシャツというカジュアルなものであったが、社内でみる、ちょっとカジュアルな倉沢ゆり子という感じだ。

「あっ、設楽さん、おはようございます!」

朝からだろうが何だろうが、テンションの高いトイプーで、耳元で急にきゃんきゃんと鳴かれたようで、涼の眉間がむっとシワがよる。

「うるさい、牧川っ!」
「あああ、設楽さん、ぼ、僕、どうして、ここに、あの昨夜は?」
「何が僕だ、この野郎っ!お前が酔いつぶれっちまったんだよ。」
「ええええ?」
「何がええ?っだ。」

涼はイチイチ、牧川の言葉尻を取ってみせる。

「途中までは覚えてるんです。ワインの2本目が空いて、、えっと、えっと、、」

牧川はううん、とうなりながら考え込んだ。

「嘘だろ?そんな前から記憶がないのか?」
「えっと、、、3本目って頼みましたっけ?」

牧川は本当に覚えていないらしく、寝起きだというのに綺麗に澄んだ瞳を涼に向けた。と言うことは、昨夜の目の座った牧川の、ゆり子大好き宣言の宣戦布告は、覚えていないらしい。

「お前さ、結構重いな?」
「は、はい?」
「俺、肩痛いんだけど?」

涼は意地悪そうに目を細め、右の手で左肩を揉み始めた。

「えっと、、?」

牧川が昨夜の記憶をたぐっているのか、視線を右上に向けた。

「牧川の家もわかんないし、いやあ、あのワンバーからお前をおぶってさ、ここまで、、」
「え?えええ?まじですか?設楽さんが、ぼ、僕をおんぶして?
す、すみません、すみません。」

牧川は平身低頭して、それは哀れなくらい詫び始めた。それを見ていたゆり子が牧川に同情したのか、口を挟む。

「もう、設楽さん、意地悪ですよ。牧川君大丈夫。設楽さんがおぶってきた距離なんて、ものの5分もないから。あとはタクシーで来たんだもの。」
「え?いや、でも、、倉沢さんにまでご迷惑をかけて、、しまって、、」

何とも泣きそうな顔になり、ゆり子にも謝る。眉じりが少し下がって、どうやらゆり子は困っているようにみえた。

「さあ、もし、食欲ありそうなら、朝ごはんにしましょうよ? 
顔洗って来て下さい、二人とも。」
「いえ、ぼ、僕は、し、失礼します。
そこまで倉沢さんに甘えては、、本当にご迷惑をおかけして、、」

ゆり子の言葉に牧川が顔の前で手をブンブンと振り、大層な恐縮ぶりだ。ゆり子は本当に困ったのか、助けてくれといわんばかりに涼の方をチラリと見た。涼にしてみれば、これで牧川が朝ごはんも食べずに帰ってくれればしめたものなのだが、、、だが、ゆり子から懇願するような視線を向けられている今、それを無視するわけにもいかない。

「いいじゃないか?甘えていけば? 
迷惑かけたのは事実なんだし、もうこれ以上遠慮したってなあ?」
「で、でも、、」
「どうして、またそんな意地悪言うんですか?!設楽さん。大丈夫よ、牧川君。わたしもあるから、ヨッパラって人に迷惑かけちゃったりして前後不覚で結局友だちの家に泊まっちゃったりとか、、、」

ゆり子の聞き捨てならない台詞に、男の家じゃないよな?などと涼の心はビクリとなった。まったくゆり子の言葉ひとつひとつにも、その意味を勘ぐってしまう、情けない話だ。

「ええ?倉沢さんでも?」

牧川は、急に驚いたような声をあげた。

「ええ。だから、気にしないで。酔ったときの失敗は、忘れましょう。ね?」

涼やかな瞳が細められ、牧川を安心させた。

「す、すみません、、、本当に、倉沢さん、すみませんでした。」
「じゃあ、二人とも顔洗ってきて。洗面所にタオルとか置いてありますから。」

ゆり子は言うだけ言って、さっさかとキッチンへと戻っていく。

「本当に僕、、いいんでしょうか?一緒に朝ごはんまでご馳走になって?」

残された牧川が涼に同意を求めるように尋ねる。だが、涼の眉があがる。

「牧川?お前、倉沢の言葉そのまま受け取ったのか?」
「えっ?ち、違うんですか?僕、、
やっぱり迷惑かけちゃったから、倉沢さん怒ってるのかな?」
「さあ、どうだろうな?」

涼が言った傍から、牧川の顔がうなだれた。まさに絵に描いたような『ショボン』だ。

「牧川、倉沢がそんな社交辞令言うわけないよ?アイツは嘘はつかないし、つけないし。」

ついほだされて、結局涼も牧川を慰めたのだが、、

「ですよねえ?倉沢さんて、素直で正直ですもんね。本当憧れます。」

余計な一言までつけ加えて、嬉しそうな顔をして、見えない尾っぽがちぎれんばかりにバタバタと揺れている。

「牧川。」

涼は真剣な声を出した。

「俺、倉沢のこと好きだから。」
「、、、、」
「倉沢が俺のことを好きでいてくれる限り、お前に出番はないからな?」

涼の一重の瞳が鋭く光った。牧川は意外にあっさりと引き下がった。

「わかってます。倉沢さんに言われました。」
「ん?ああ。」
「自分は不器用だから、よそ見が出来ないんだって。視野が狭いから、ずっと設楽さんしか見えないからって。」

涼の心臓がドキリとする。ゆり子の正直さが胸を揺さぶる。思わず顔が緩みそうになるのを必死でおさえる。

「だけど、、、」

牧川が言いにくそうに言葉を飲み込んだ。

「なんだよ?」
「い、いえ、、、」
「気持ちわりいな。言えよ。続きがまだあんだろ?」
「あ、あの、、、僕、、余計な一言を、、」
「ん?」
「そのう、、倉沢さんが、、そうでも、設楽さん飽きっぽいから、、だから、そのう、」、

さすがにみなまで言うのが憚られたのか、牧川は困った顔になった。つまり、ゆり子がすきでも、いつかは過去の女たちのように涼に捨てられる日がくるのではないかという牧川の懸念だ。そして彼はその言葉をゆり子にもぶつけたのだろう。

「だけど、、倉沢さん、、マジかっこよかったです。」



『設楽さん飽きっぽいから、飽きちゃったら、倉沢さんとのこと距離を置いて自然消滅っていうパターン、あると思いますよ?』
『ありそうね。設楽さんなら、ありえる、、かな?』

ゆり子も異論は唱えない。牧川はゴクリとつばを飲んだ。何故なら今目の前にいる倉沢ゆり子の顔が、キリリと引き締まり、ともて美しい顔(かんばせ)に心が持っていかれる。

『でもね、牧川君、わたしは多分、それでも、わたしの好きが枯れない限り、わたしの中でその気持ちはずっとずっと生き続けていくと思うわ。』
『報われなくても?ですか?』

『ええ。だって、自分の望んだ結果なんてそうそう手になんか出来ないものよ?そうやってわたしたちは生きてきて、学んで生きている。ましてや、人の気持ちなんて自分の思い通りになんかならいでしょう?そう思えば、今、このとき、この瞬間、設楽さんの気持ちとわたしの気持ちが交錯していることの方が奇跡なのかもしれない。』
『えっ?』

『だったら、今、このときをじっくりと生きていきたいわ。』

ゆり子の顔は負け惜しみでもなんでもなく、本当に、淡々と、言葉を紡ぐ。

『だったら、僕も、この気持ち、、大切にしてもいいですか?倉沢さんのこと、、諦めなくても?』
『応えられないわ、、どんなに待っても、、きっと牧川君の想いとわたしの想いが交錯することはない、、かもしれない、、それでも?』
『いいです。倉沢さん、僕だって25年間生きてきてわかったことは、絶対、なんてことは人生にはありえないんですから。』
『、、、、』
『だから、倉沢さんの気持ちと僕の気持ちが交錯しないなんて、絶対にありえない!なんてこと、誰が言えますか?だから、僕、諦めません。僕の中で好きという気持ちが枯れない限り、、』

最後は、ゆり子の言葉を借りて牧川は想いの丈を伝えたのだ。それに対して、もうゆり子は何も言わなかったらしい。いいわよ、とも、無理かもね、とも。ただ、牧川の言う事を黙って聞いていただけだった。



「だから、、僕の想いは、まだ枯れてません。」
「知ってるよ。」
「え?」
「昨夜聞いた。」
「え?ぼ、僕が、、そう言ったんですか?」
「まあ、らしきことをな。」
「、、、、、」
「だがな、牧川、倉沢が俺を捨てることはあっても、俺が倉沢を捨てることなんて、ないから。絶対・・にな?」
「で、、でも。」

人生にありえない絶対。だが、あえて涼はその言葉使った。

「俺のここが、そう叫んでる。痛いくらいにな。だから、俺の絶対は、絶対なんだ!」

涼は胸をトントンと指先でたたき、ぐっと牧川を睨んだ。切れ長の瞳は、とても迫力を帯び、だが、ほのかに色香が漂ったのは、涼がゆり子に心底惚れている証なのかもしれなかった。

「まあ、お前がずっと倉沢を想うのは自由だが、一生、ジョーカーのないばば抜きをやっているようなもんだからな、覚えておけよ?」

片割れのババがなければ、一生あがることはできない。不毛なゲーム。おそらく牧川がどんなにゆり子を想っていても、当の涼が手放す気がないのだから、牧川に報われる日など来やしない、そう涼は言いたかったのだ。

「倉沢が逃げない限り、俺は手を離さないし、、わりいな?牧川。」

逃げたってどこまでも絶対に追いかけていくしな、と涼は心の中でつぶやいた。

「チェッ、、また、失恋かああ、、」

牧川は大きなため息をついた。

「だけど、倉沢さんって情にほだされるところありますもんねええ?」

瞳をクリクリさせて、涼に笑いかけた牧川。恐るべし、切り替えの早い男。そして、それは作戦としてはあながち間違ってはいない。涼の一番自信のないところを揺さぶられた。

「お、おい、牧川っ。」

涼は敢然と牧川に言ってやろうと、息を吸ったそのとき、キッチンから声がする。

「もう朝ごはんできましたけど?」

その声は、こんな殺伐した空気でさえも一掃してしまう穏やかな声だ。

「まだ、顔洗ってないんですか?」

少しばかり呆れた声音のようで、ゆり子はキッチンから、爪を抜かれた黒豹とトイプーを見つめている。主人の言う事はそれはよく聞くトイプーはピョンと立ち上がる。そしてもう一人、すっかり爪を抜かれたしまった黒豹は、もはや獣ではない。ゆり子の優しい手の中で踊る、気まぐれをよそう黒猫と化していた。涼も、ゆるりと立ち上がり、牧川とともに、勝手知ったる洗面所へと動き始める。

美味そうなコーヒーがハナを掠めて、涼の瞳が細まった。キッチンをチラリとみれば、3つのマグカップが置いてあるのが見える。ああ、ひとつは客用のマグカップ、そして残りは、2本、青いラインの入った、いつものマグカップ。涼はそれをしっかり視線でとらえて、ゆり子を見やる。ゆり子は、涼の言いたい事がわかったのか、すぐ目をそらした。首からほんのりと赤く染まっていくのを見れば、意識的にそのマグカップを出した事がうかがわれた。なるほど、今は、まだまだダンゼン涼が有利のようだ。

ゆり子は多くを語らないけれど、その細かい端々を見ていれば、必ずわかる。だからこそ彼女は見ていなくてはいけないのだ。よそ見をしていたら、大事なサインを見落としてしまう。これが谷美和子が言っていた、マジ恋なのか何なのか、よくはわからないけれど、青いラインがスッと引かれたマグカップから温かな湯気がほんわかでていて、涼は安心する。胸がドキドキするし、切ない想いもするし、嫉妬にかられることもあるけれど、それでもやはりゆり子が傍にいるだけで、アタタカイ気持ちになるのは事実。これが、マジ恋なら、一生に一度でいい、涼は、そう心に決める。絶対に放さない、今、涼の胸がそう叫んでいた。







オマケに続く
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