シークの涙 第二部 永遠の愛

20.

「嘘でしょう?」
「いやああん、ラビ様がそんなことするわけないって。」
「え、でもルイが見たって!」
「「「ええええ?!」」」


「コホン!」

うっすらと赤いスケルトンフレームを、くいっと上げたイッサの咳払いに、女子社員たちがあわてた様子でサッとちりぢりに散っていく。残されたのはマミーだけであり、彼女の旗色はすこぶる悪かった。

「マミー、先ほどわたしが頼んだ出席リストはどうなって?」

落ち着いた声がフロアに凛と響く。マミーは小さく肩を竦めバツの悪そうな顔で、「すみません。」と小さく謝った。

「あ、あの、、じ、実は、、あの人たちが、ラビ室長の、、」
「お黙りなさい!」

静かだがピリリとしたイッサの一喝が飛んだ。


「マミー。あなたはどこの部署で働いているの?」
「ひ、、秘書課です。」
「それならば、秘書の仕事とはいったい何ですか?」

入社して以来、このイッサ女史の下で補佐的仕事をしているマミーは、イッサの質問はもう何度も何度も耳にしている。マミーがモイーニ・エンタープライズに入社し、イッサ女史の下で秘書業務を叩きこまれるにあたり、何百回と繰り返し繰り返し教わってきた問いだ。すぐさまマミーは秘書の顔になった。

「会社の正しい利益のために、公私に渡り秘密を厳守し、利益を生む人材のために尽くす事。です。」
「具体的には?」
「は、はい。仕事がスムースに滞りなく進むように、社長やボーディングメンバーの仕事環境を整えることです。」

イッサは、何も言わずマミーを見つめている。どうやら間違いなく言えたようで、マミーは内心ほっと溜息をつく。だがすぐに女史は満足しないように手を緩めなった。

「ならば、そんなくだらないことにかまけてないで、すぐに懇親会の出席リストを作成して頂戴!」

何事もなかったようにイッサ女史は淡々と諭していく。普段は絶対服従のマミーなのだが、この、“下らない” という文言がひっかかったらしい。

「下らなくなんてありません!わたしたちの室長が侮辱されたんですもの。そんなデマがまかり通るなんて絶対許せません!」

キッと眉をあげマミーはイッサを睨んだ。イッサも言葉を選ぶべきだったと、己のいたらなさを反省するようにため息をついた。というのも、マミーはラビの崇拝者の一人だ。モーセをシークとして崇拝する人間は多いが、モーセ モイーニは秀でた孤高の山であり、女たちがこぞって群がるには恐れ多さを持っている。一方、モーセの片腕と知られるラビ アシュウカはその端正な容姿や洗練されている身のこなし、何よりもその人当りのよさが女たちの心をくすぐる。普段は沈着冷静な男だが、柔らかく丁寧な言葉使いや物腰の柔らかさなど、女たちの心を優しくかき乱すには十分だ。そんなところから、高嶺の花のモーセとは違い、もしかしたらラビには見初められるかもしれないという一筋の光を女たちは見出すのだ。ラビは、公私ともにモーセに直結する部下ではあるものの、秘書課フロアーの総括室長でもある。秘書課に所属するマミーはイッサ女史と共に、組織図でいえばラビの部下ということになっている。勿論、秘書たちを実際に束ねているのは秘書課室長なのだが、秘書嬢たちはラビと働けることに喜びを感じていたし、他部署の女子たちしてみれば実に羨ましい話であった。

その憧れの上司、ラビに、今、マミーが耳にした噂は、天と地がひっくり返るような耐え難き中傷であり、それを下らないというイッサ女史にも猛烈にマミーは腹をたてていた。ラビが、ハナと密会し、あろうことか熱烈な抱擁をしていたなんていう噂が、ルイというおしゃべり女のお陰で一斉に広まってしまった。これがくだらないという一言で片づけられるというのか。だが、イッサはマミーの怒りなど、どこ吹く風と言わんばかりに言ってのける。

「それがわかっていて、何故あのような下世話事げせわごとで周囲の女子社員と騒ぎ立てているのですか?本来ならば、あなたが諌めるべきところを!」

話の内容を耳にしていたイッサは、嫌悪するように鋭い口調でマミーを責める。

「で、、でも、、社内で、そんなハシタナイ、、といいますか、ラビ室長の同情を誘い誘惑するなんて、社長にとっての裏切り行為を見逃すわけには、、、」

正義をはき違えたような瞳を向けて、マミーは少しだけイッサに抗った。

「お黙りなさい!裏切り行為というのは、社にとっての不利益、不正をいうのです。彼等がいったい何をしたというのですか?」
「で、、でも、、ラビ室長がシークにとってはなくてはならない存在だと知っていて、、ハナさまだって、そこはもう少し考えるべきです!ここはシークの会社なんですもの!」
「もういい加減、その口をお黙りなさい!マミー。」

ピシャリとイッサは言ってのけたが、時、すでに遅かった。


「何の話だ?」

「ひいいっ!」
「し、、シーク。」

二人の背中越しに腹まで響く低い声がする。マミーは飛び上がらんばかりに驚き、さすがのイッサも絶句した。二人とも恐る恐る回れ右をして、モーセを視界に入れた。二人の前に大きな影が立ちはだかった。

「い、、いえ。なんでもございません。それより、何か?」

イッサはこの話は終わりとばかりに通常業務へ戻ろうと、メガネのフレームをまたくいっとあげた。だが、モーセはとびきりの笑顔を浮かべ優しげな表情でマミーを攻める。経験値の高いイッサは眉をしかめ、マミーを諌めようとしたのだが遅かった。マミーの瞳はとろんとピンク色に染まり、すっかりモーセに懐柔されてしまった様子で、、、

「はい、実は、、、」

あとは催眠術にかかったように、ぺらぺらとマミーの口から言葉が漏れた。イッサは、モーセの微妙な表情を見逃さない。これも長年モーセに勤めているからこそであり、現時点でモーセの心を少しばかり読める選ばれしものは、ラビのほかに、このイッサ女史だといえよう。モーセの顔に不快な色が浮かんだのを見逃さなかったイッサは、この後のことを考えて体中の産毛がざわりと立ち上がった。

「ラビを呼べ!」

モーセの声が、秘書たちの腹にぐぐっと迫った。よもやラビを首にするとは思えないが、何やら不穏な空気を醸し出すモーセに、イッサは嫌な予感を覚え、マミーは己の犯した失態にはっとなり、泣き顔になった。





*****
緊張した面持ちでラビはモーセの前に立っていた。モーセから発せられている圧を、この瞬間、肌で感じていた。長年の経験から無駄口をたたかず、ただ黙ってモーセが口を開くのをラビは待っていた。

今しがた聞いたマミーの話を鵜呑みにするほどモーセは愚かではない。けれど、おそらく、=何らかの理由で= ハナとラビが触れ合っていたことは事実に違いなかった。それを思うと腹の底からマグマのようなドロドロとした熱いものが吹き上がってきそうだった。自分だけに依存してくれればいいものを、最近のハナは己の世界に飛び立っていこうとしている。もちろん、ハナが新しい世界を見つけてそこで喜びを感じ、また必ずモーセの元へ戻ってくるのであれば、モーセだって何の懸念もない。モーセだけを感じ、モーセだけを見つめ、少なくとも今のモーセはハナのために生き、ハナだけを感じていたいと思っているのだが。だが、ハナは新しい世界に飛び込んでいこうとしていて、その世界を知ったら最後、もう自分の手を必要としないのではないか、、、そんなふがいなさが湧き上がってきて、だからこそ、モーセは自らハナを突き放した。夜も一緒に過ごせば、きっとまたハナを抱きしめ求め、ハナを放せなくなってしまいそうだった。己の不安を隠すように、最近はハナとの距離を置いている。夜も一緒に眠ることもしていない。ハナに触れないようになって、数日間だというのに、モーセのイライラは募るばかりだ。平静を装い、仕事に没頭しているのに、先ほどのマミーの話で、モーセの中で何かが崩れていく。理性ではわかっていた。ハナもラビも決してモーセを裏切らない。けれど、勝手にハナを自分から追いやったとはいえ、ラビがハナに触れていた事実にモーセは今猛然と怒りがフツフツと立ち上がっていた。モーセの中の未知の感情が激しく狂おしく感情を揺るがしていた。モーセは大きく息を吸った。

「来週からタンパベラに行く。」

突如静けさを破ったモーセの声は、一部も隙のない揺るぎのない声音だった。

「え?それでは、わたくしも、、」
「いや、お前は残れ。」
「え?」

「一人で行く。」
「、、、、」

眼鏡の奥でラビの瞳が揺れ、強い光を放つモーセの瞳と目があった。そしてモーセの決意が断固としたものであると一瞬で理解した。だが、それでもハナのことを思うとラビは最後の説得を試みる。

「しかし、、それではハナさんが誤解してしまうかもしれません。」

モーセが男としてユリカの元へ行くわけがない。おそらくいよいよダンマー族との交渉を始める気であろう。だが、そのユリカのいる場所にラビもつけずに行くとなれば、はたから見れば、愛しい女に会いにいくと思われることは必至だ。そんな明らかな結果が見えているのに、なぜモーセはこうもハナを傷つけることができるのだろう。

「ハナのことはすべてお前に任せる。」

ラビは息をのんだ。食い下がろうとしたが、モーセはすでに目を伏せ手元の書類に目を落としていた。そして、片方の手をあげラビに一瞥もくれず追い払う、そんな仕草で、手のひらで空気を押しやった。ラビにできることはもう何もない。

「それではタンパベラの社員に手筈を整えさせます。」

無言で頷いたモーセにラビは一礼し部屋を辞した。
web拍手 by FC2

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system