シークの涙

2.

NYC ラ・ガーディア国際空港は、世界中の空港の中でも巨大な空の玄関口と言われる。NY市民とはいえ、頻繁に利用していなければ、ここでは、おのぼりさんの如く右往左往するのは日常茶飯事。シークと呼ばれるこの男、モーセはその長い足を見せつけながら空港を確かな足取りで歩いていく。出発時間には多少早い時刻ではあったものの、何度も訪れているNYの喧騒街で時間を潰すより、空港VIPルームラウンジで優雅にくつろいでいた方が、よっぽどリラックスが出来る。

「ああ、危ない!」

珍しく顔色を変え、声をあげたのは、秘書のラビ。モーセが前方を見やれば、今、少女がカートにぶつかって体が投げ飛ばされた瞬間だった。カートには有名ブランドのトランクが山済みにされ、かなりの脂肪を持て余したポーターとその前では高慢な感じで鼻をツンとあげているマダムが歩いていた。

「ソーリー」

ポーターはおざなりな態度で謝罪の言葉を少女にかけた。だが、マダムは、ゴミ屑でも見るように、何事もなかったかのように歩を緩めない。床に倒れている少女は、その細すぎる貧弱な体つきからして15歳くらいか。印象的なのは、その瞳で、幼子のような澄んだ黒い瞳が、大人の目にはまぶしく映る。髪の毛を腰あたりまでにのばしていたが、黒くつややかな髪の毛には、いわゆる天使の輪が出来ている。 その風貌から推察するに、おそらくアジア系の少女のようだ。かなり痛そうな顔をしていたが、ぶつかった相手の横柄な態度に、別段気分を害するわけでもなく、すくっと立ち上がる。そして何事もなかったように歩き始めたが、やはり、自分の今いる位置がわからず、キョロキョロしているようだ。

ラビは心配そうな顔で少女に視線を送る。モーセはそのラビの態度を非常に珍しく思う。ラビは、その万人受けする綺麗な容姿とはウラハラにあまり自分の感情を表に出さない。いわゆる、ニコニコしている割には、そのメガネの奥の瞳はいつも冷静で、何を考えているのかわからないタイプなのだ。

やがて、ラビはすぐにいつものような態度を取り戻す。『それでは取り急ぎチェックインをしてしまいましょう』とモーセを促した。

「おまえ、今、見たか?」
「はっ?」
「今、マダム ヤンスがいた。」

モーセの顔には明らかに不満な様子がありありとうかがわれ、ムッとしている。

「あっ。」

ラビは少女にばかり目がいき、ぶつかった相手を注目していなかった。先ほどの高慢な女性はどうやらマダム ヤンスであり、モーセが一番苦手とするタイプの女であった。

「悪いが、彼女の行き先がどこか調べろ。
ペルーシアに行くのであるならば、
俺の隣に今度こそ座らないように、何とかしてくれ。」

モーセの泣きが入った。マダム ヤンスは香港でも片手の指に入る名門家で、世界トップクラスの富豪である。彼女は年に何度もペルーシア王国に足を運び、お金を湯水のようにおとしてくれる、王国の中でもかなりのお得意様。ペルーシアの医療技術も世界に名を馳せているのだが、その中でも整形手術に関しては、金も高いが、確実で、世界から富豪マダムがわれもわれもと押し寄せる。女に関しては、冷たくあしらうことなど意に介さないモーセだが、マダムが、まず王国きってのお得意様であること、またペルーシア王国の男性と同様に、年上の女性に対しては敬い、礼をつくす習慣には、モーセも絶対だった。

以前、たまたま乗り合わせた国内線機内で、マダムがモーセを見つけて、隣の席を陣取った。彼女にとってはどんなことでも金で解決できるので、すでに別の人間によって取られた席でも、自分の席に変えることなど容易くて、笑いすら漏れるのだ。モーセはあのときの悪夢を思い出す。ずっとモーセにべったりで、彼女の辞書には沈黙という言葉は存在しなかった。1秒たりとも口を閉じる事はなく、4時間苦痛の空の旅となったのである。

今回はビジネスクラスしか取れなかったので、ラビの部下はちゃんと、モーセの隣の座席も買い占めていた。だが、マダムにかかれば、その空席を自分のものとする絶好のチャンスとなり、モーセにとって祖国への道のり、14時間が、苦痛でしかなくなる。

「かしこまりました。」

ラビは心得たものだ。


*****

ペルーシアは、海外からの旅行者も多く、近来自国の民間企業航空会社が設立された。アブデルワヒ航空は、王国から、世界各国の主要都市への乗り入れが可能となり、ペルーシアまでの直行便としてはとても重宝されている。価格競争の激しい昨今とは逆行しており、チケット代金も廉価ではなかった。だがそれに見合うだけの豪華な設備と王族のようなサービスが受けられるということが評判で、富豪たちの間では、もっとも人気の高い航空会社のひとつとなっている。

ラビはそのアブデルワヒ エアーラインのカウンターに来ていた。ゆったりとしたチェックインカウンターには、”エグゼクティブクラスご利用のお客様” のサインがある。

「わたしは、モーセ・S・モイーニの秘書なのだが。」

そう言ってトリパティ部族の紋章の入ったIDをカウンターに出す。アブデルワヒ航空会社の顔である、カウンター嬢は社内きっての中近東らしい妖艶な美女達をとりそろえているのだが、その美女達の顔が上気する。

「はい。何なりとお申し付けくださいませ。」

彼女は、ラビの美しさに顔を赤らめるのと同時に、その後ろに立つ尊大で自信たっぷりな美形の男にも心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

「まず、マダム ヤンスの行き先を調べてもらいたい。」

『お客様、それは個人情報ですので、、、』云々、などとは、絶対に言わない。ここでは、シークの命令は絶対なのだ。

「はい。今しばらくお待ちくださいませ。」

カウンター嬢は、その美しく塗られたピンクのツメをキーボードの上に散らばせながら、大きな瞳で画面を追っていく。ラビはふと、隣のカウンターをみやる。そちらは、同じ航空会社ではあるが、エコノミークラスのカウンターだ。エコノミーとはいえ、他の航空会社よりもチケット代金は割高なのだが、いつもお客は途絶える事を知らない。

ラビの美しい眉毛があがる。

先ほど床に飛ばされた少女がそのカウンターで身振り手振りで、チェックインカウンターでしゃべっているようだ。ラビは、初め、彼女が英語ができないための身振りなのかと思いながら、その少女を見つめていた。だが、その少女は言葉をしゃべらなかった。口を開かず、一声も発せず、なのに、顔の表情も手の表情も豊かだ。カウンター嬢の横には、手話の出来る人間が、そのカウンターをサポートしているようだ。コミュニケーションは案外スムースに行われていた。

「お待たせいたしました。」

カウンター嬢の声でラビは我に帰る。

「ヤンス様はシークと同じ便でペルーシアにお発ちになります。お座席は、シークと同じ並びの逆の窓際をおとりしておりますが。」

美しい顔に似合う涼やかな声で答えながら、彼女はにっこり笑った。

ラビは頭をフル回転させる。それから、彼女に向き直った。

「ひとつ頼みがあるんだが、、、」


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