シークの涙

36.

早朝から、モーセの屋敷はあわただしく、人の出入りが激しかった。ハナが忽然と屋敷から姿を消したことで、緊張が走る。モーセやラビのめいを受けて、次から次へと人々が猛スピードで動きだしていた。



モイーニ家の屋敷の朝は早い。いつもだと、ハナも早朝5時くらいから屋敷をウロウロしているのを使用人たちや夫人が見かけるのだが、今朝に限って誰もハナを見かけることがなかった。疲れているのだろう、誰もがそう思い、ハナの部屋の前を通るときは、みなひっそりと物音をたてないようにと気を使った。だが、6時を回ってもハナの姿が見えず、さすがのタマール夫人が 病気ではないかと心配して、部屋の扉を叩いた。

だが、、ハナからの返答はなく、部屋は、もぬけの殻だった。



サビーンもあわてて駆けつけてきた。

「どういうことっ?!、モーセっ!」

ヒステリーのような甲高い声音になった。サビーンの顔に動揺が走り、同時に怒りが込み上げた。それは、自分への怒り。彼女が責任を持ってハナを王国へ呼んだのに、結局ハナの面倒はモーセや屋敷の者に任せた、、、ハナに何かあったら、、、とてつもなく怖ろしいことが頭を過ぎる。

「ああ、神よ、助けてください、、、おじいさま、、、」

彼女は回教徒ではなかったし、遠い昔、カトリックの洗礼を受けたものの熱心な信者でもなかった。けれど今は万能の神に、天に、助けを求めるしかない。

「詳細はわからない。」

モーセの顔は厳しかった。こんな従兄弟の顔も珍しく、サビーンは余計嫌な予感が頭を掠める。朝から働きっぱなしのラビが、サビーンを気遣った。

「サビーンさま、ハナさんが姿を消してから、、恐らく、1,2時間というところだと思うのですが、、、だがもし彼女が拉致されたなら、何らかの形で犯人から連絡があってもいいはずなのですが、今のところは何も動きは、、なので、ハナさんが自ら外出されたという線も、わたしどもは視野にいれて動いています。」

ラビの顔色も青白く今にも倒れそうな顔をしていたが、それでもサビーンを安心させようと最後はそう付け加えた。サビーンは、ハッとする。自分だけが辛いのではないのだ、そう思い直し、ラビに優しく声をかけた。

「ね、ラビ、あなた栄養注射を打ったほうがいいわ。こっち来て。」
「でも、、」
「あなたはモーセの大事な片腕で、モーセの手や足となって動き回る事のできる唯一の人よ。そんなあなたに今倒れられたら、見つかるハナの手がかりがどんどん遠のいていくのよっ?」

手厳しくサビーンが諭す。確かにラビは、モーセが心から信用しているナンバーワンの男だ。表情ひとつ変えず、難しい顔をしているモーセも隣で頷いた。

「ラビ、サビーンの言う通りにしろ。」
「あ、、はい。」

モーセの声を合図に、サビーンは持っていたカバンから注射を取り出した。いわゆる栄養剤が入っているアンプルを出し、手際よく注射の準備をしていく。

ラビは、腹を決めて腕をまくった。

続いてサビーンはモーセにもささやいた。

「あなたもよ。モーセ!あなたが一番倒れそうな顔をしているわ。」




*****

サビーンは周囲の人間が気がつく前に、さっとモーセに注射を打った。こんな状況を見れば周囲の人間に動揺が広がってしまう。モーセはどんな事が起きても、何ら微動だにしない強さがある。だから、どんな事態がおとずれても、人々は、モーセのゆるぎなさに安心を求めるのだ。だが今のモーセは、顔色も悪く気力だけで指図しているにすぎない。もし緊張の糸が切れたならば、この大男は容易く床に崩れ落ちていくかもしれない。

昨夜の =衝動的にハナにキスをしてしまった= 予想外の己の態度に腹をたて、おさまりもつかず、そのまま夜通し仕事に没頭していたのだ。少し仮眠をとろうと思った矢先、夫人の金切リ声が聞こえてきた。寝不足だからといって、頭の働きが鈍くなるということはない。それどころか、冷め切った頭で、ハナの最悪の状況ばかりが目に浮かぶ。モーセは、明らかに動揺していた。それは、まだ、周囲のものにはわからないだろう。サビーンだからこそ、それを感じ取っていた。そして、おそらく、ラビも。それだけモーセは追い詰められていた。

屋敷の警備体制は、昨日からタイミングよく警護が増員されており万全だったはずだ。それなのに、、、ラビは何かがひっかかるのだと首をかしげた。屋敷や会社を担当する警備会社は、シークの安全を代々守ってきている信頼ある警備会社だ。その最高責任者が断言する。

『怪しいものの動きや、屋敷への侵入者など、そのような動きは昨夜から今朝にかけてまったく見られませんでした。』

ならば何故ハナは消えたのか。部下達を総動員させて探し回っているのに、未だハナの情報は何一つ得られない。モーセを見やれば、どうやら彼の我慢も限界に来ているようだ。ラビはモーセが懸念する『ハナが拉致された』という可能性は低いのではないかと考える。

突然、張り詰めた空気の壁がピシリとヒビが入るように、モーセが唸った。

「ジーナを連れて来い。」

「いや、シーク、それは、、ハナさんが拉致されたと決まったわけでは、、」
「いいから連れて来い!」

有無を言わさないその声音にラビは一瞬戸惑う。モーセだってわかっているはずだ。この間からジーナを傍に置いて、モーセが心を許しているように見せかけているのは、ジーナの背後に蠢く黒幕を浮かび上がらせるためだ。だが、まだ何も掴めてないのだ。それなのに今、ここで、ハナの居所のことでジーナを問い詰めれば、黒幕はあわてて爪を引っ込めてしまう。まだ真実は何もわかっていない。ジーナをスパイにしてまでモーセの身辺を探っている敵の本当の目的や、その黒幕が実はハナの両親の死に関係している可能性の有無、ひいては、王国が現在頭を抱えている問題、レイプ集団組織の黒幕、など、全ての糸口はジーナが握っているといえた。だが、何一つ詳細が不明のままだ。今の状況でジーナに尋問をすることは尚早だといえる。そんなこともわからないモーセではあるまい。

「ラビ!!」

ラビが未だ動かないのを見て、モーセはイラだった様子で彼の名前を呼んだ。それは、ラビに対する威嚇だった。

「待ってください。ジーナはまだ泳がせて、、」
「その間に、ハナに何かあったらどうするのだ?!」
「けれど、彼女を今追い詰めたら、せっかくのレイプ集団組織の壊滅のチャンスが、、、」

サビーンも驚いたようにモーセを見つめた。

「ジーナは犯罪に加担しているの?ハナの件に関係しているの?ね?ラビ?」

「今、わたしの部下がシタールの行方を追っています。必ず、何かあるはずです。今しばらくお待ちください。」
「シタール、あの片目の男か?」

シタールは、リドリー大臣の影の右腕で、滅多に表にはでてこない。彼は、リドリーの命令なら、人も殺す。彼の過去は謎で、モーセといえどもその正体を突き止めることは不可能だった。だがその実力と手腕に、モーセは何度も自分の配下になるように手を回したが、ことごとく失敗している。彼のゆるぎない忠誠心もモーセは気に入っていた。病か事故か、シタールは左目を失っている =らしい、その真偽も不確かで=、昼夜かまわず真っ黒なサングラスをしている男だった。

「はい。昨日あたりから、あの男が、こちらの屋敷を見張っているという目撃証言が入ってきてます。ですから、、」

シタールが何か必ず鍵を握っているとラビの勘が告げていた。だからこそ今はシタールの行方を追うのが急務。ラビはモーセの返事を待たず踵を返し足早に部屋を出て行った。

「どうするの?モーセ?」

サビーンの胸が騒ぎだした。モーセとラビのやり取りを聞いて、とてつもなく恐ろしいことがハナの身の上に降りかかるかもしれない。レイプ事件、、もし、それにジーナが加担していたら、東洋人のハナは、高値がつくくらいの対象になりかねない。サビーンは嫌な予感で胸が押しつぶされそうになった。

「ねえ、ハナは、ハナは大丈夫なの?」

サビーンの心配そうな声も聞こえないのか、彼はじっと考え込んでいる。やがておもむろに口を開いた。

「タマール夫人、サファールに言ってジーナ・シャダウーをここに連れてくるように。」

ハナがいなくなってからもう生きた心地がしないタマール夫人は、モーセのこの命令に一路の希望を抱くように、急いで運転手サファールを呼びに出て行った。

「ああ、ハナ、、、」

泣き言をいうサビーンを一人置いて、モーセもまた足早に書斎へと向かった。ジーナが来る前に準備をしておかなくてはならないからだ。

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