シークの涙

44.

「いやあ、キミはなかなかのものだね。」

ジョセフ リドリーの会合から2日後、今度はアショカ・ツールがモーセの部屋を訪れていた。彼は小柄で、部屋に置かれている大きなソファに埋もれているように見える。その隣に一人掛けソファーにどっしりとモーセが腰をかけていた。アショカが座っている椅子と対のはずだが、モーセが座れば、しっかりと彼の存在感をしらしめる。長い脚をゆったり組んだ姿は、まさにシークの貫録が漂い、老いたシークの小柄さだけをみれば、部族間の優劣に、勝負あったといえるかもしれない。

「申し訳ありません。」

年上であるアショカにモーセは慇懃に答えた。

「理由を聞かせてもらえるかね?何せ、最愛の娘たちを断ってきたのだからね。わたしには父親として、理由を聞かせてもらう権利はあると思うのだが。」

もっともな理由に、モーセは頷いた。

「申し訳ありません。シーク。」

モーセはもう一度謝って、同じ称号を持つアショカに敬意を払った。

「実は、わたしは、そろそろ妻を娶るつもりで、その準備を整えております。」

一瞬アショカの眉があがった。

「な、、なんと、、、」

よほど驚いたのか声にならない様子だ。それもそのはず、モーセが結婚するとなれば、政略結婚に違いないと思われており、そうなれば、噂だけでも人々の口に上るものだ。だが、アショカの知る限り、モーセの婚儀について耳に入ったことなど寸分なかった。

「驚かれましたか?」
「いや、、、もちろん君も、、適齢期としては遅すぎるくらいだから、そんな話があってもおかしくはないだろうが、、だが、それにしても、モーセ モイーニの結婚となれば、もっと世間が騒々しくなってもおかしくはないだろう?」

「ハハハ。そう言っていただくと何とも恐縮ですが、、、実は、わたしも驚いているのですよ。突然のことでしたので、、」
「む?なんと?では、わたしが娘の縁談を頼みに来たときにはまだ結婚話は出ていなかったとでもいうのかね?」
「おっしゃる通り。本当につい最近のことですので。」

「で、お相手は?」

アショカは興味があるらしく話にのってくる。モーセのアーモンド形の瞳がぎろりと見開いた。それは威圧するには十分だ。表向きは慇懃に年上をたてる言葉使いだが、実際、モーセ自身のプライバシーにこれ以上立ちいらせる気持ちなど毛頭ないらしい。

「まあ、そのうちわかることでしょう。シーク・アショカ・ツール。」
「なるほどねえ。そんなに出し惜しみされると、かえって凡人は知りたくなるものだ。まあ、気長に待つとしよう。」

アショカは言葉を切ったあと、じっと考え込んだ。そして心配気にモーセの顔を見た。

「ならば、、尚更かもしれん。一応君の耳にいれておこうかどうしようか迷ったのだが、、、」

モーセはじっとアショカを見つめ、彼の言葉を待った。

「君の情報網だ、もしかしたら知っているかもしれんが、、」
「何のことでしょう?」
「うむ、、、実は、舞姫ジーナ シャダウーが先日密かに亡命を果たした。だが、わたしにはさっぱり亡命する意味がわからんのだ。」

モーセにしてみれば、屋敷に呼んだ後、あの女がどうなったのか知ったことではなかった。ラビからも何も報告は受けていない。

「そこで少しだけ調べさせてみたのだが、どうやらジーナはリドリーと関係を持っていたらしい。そのことを知っていたかな、君は?」
「いいえ。」

興味なさそうに答えたモーセだが、アショカ ツールは、自分の持つ情報が、この若きシークは持っていなかったことが嬉しかったのか、得意げに先を続けた。

「君は、最近ジーナと親しかったようだが?」
「、、、、、」

無言のモーセに、アショカは先を続けた。

「実はな、」

声を潜めた。

「ここだけの話だが、リドリーが彼女を君に近づけさせたという情報があがってきておる。ところが、ジーナは何らかの失敗を犯したのだろう。そこで命の危険を感じたのか、王国からの脱出を図った。その亡命に手を貸したのが、リドリーではないかとわたしは思っている。」

モーセの眉が上がった。

「彼とは古き友ではあるが、距離を間違えると厄介だからな、いつも一定の距離を保って付き合ってきているのだが、、」

アショカが率いる部族は少数派であり、今まで生き残ってこれたのも、アショカがあまり欲を出さず、権力を持つリドリーやモーセともつかず離れずの方針で一貫していたからである。

「どうもジーナは、君のところにいる東洋の娘に妙なライバル心を燃やしていたようだ。」
「あなたはそれをどこで?」
「ああ。ジーナとわたしの上の娘が面識があってね、というか、娘がジーナのファンでね、その縁で二人はどうやら仲がよかったらしいのだが、、、その娘の話によると、、君の客人は大切にもてなされていて、、、君自身もかなり熱心に世話を焼いていたと、、」

モーセが大きく息を吸った。アショカはあわてて言い直した。

「いや、事実は知らんが、ジーナは何かにつけて娘にそう漏らしておったらしい。それで、リドリーが前から、その、、、君の、、」

アショカは言葉を探しているようで言いにくそうだ。モーセが何てこともなく言葉を引き継ぐ。

「わたしの弱みを握りたいと?」
「そうだ。リドリーという男は昔からトリパティ部族をずっと目の敵にしているからな。それは知っているだろう?君のおじいさんとリドリーの因縁を?」

モーセは無言で頷いた。

「うむ。それで、もしかしたら、その東洋の娘が君のアキレス腱になるのではないかと、、ジーナがその情報と亡命を引き換えにしたのではないかと。わたしもジーナが何故亡命したのかは、まったく心当たりもないが、、まあ何らかのまずい事態が起こったにちがいない。とにかく、ジーナはリドリーに何かと君の情報を漏らしたことは確実だ。これは娘が直接ジーナから聞いたことだから、確かなことだぞ。」
「で?」
「ああ。だから、君も気をつけるにこしたことはないだろう。君も、、その、、私生活で、準備がいろいろとあるだろうが、大切な彼女に何かあっては結婚どころの騒ぎじゃなくなるやもしれまい。」

アショカの言い方には、その東洋の客人 =ハナ= があたかもモーセの結婚相手だと見越しての進言のようだった。

「それは恐れ入ります。わざわざご注進いただいて。」

モーセの言葉は最後まで慇懃だった。





*****

屋敷の書斎は、凍り付いていた。幸いなことに、ハナの罰はもうとっくにとけていたため、今、彼女はここにはいない。その代わり、ラビがじっとモーセを凝視している。彼の表情は沈着冷静で、ただ冷たくモーセをじっと見つめているだけだ。だが、モーセの方が、その感情をあらわにしていた。こんな怒気を含み表情を露わにしたモーセは非常に珍しい。

「どうしてもと言うのだな?」
「はい。ここで一気に追い詰めるにはハナさんの力が必要です。」
「、、、、」

モーセは微動だにしなかった。いや、微かだったが、体中から怒りがこみ上げ小刻みに震えていた。だが、今日のラビも一歩も引かなかった。あくまでも冷静さを失わず、淡々とモーセの言葉をやんわり遠ざけていく。

「ハナさんは全力で、警護をつけて、いえ、わたしがお守りいたします。この命に代えてでも。」

ラビは本気だった。ハナだけは絶対に守る、守って見せる。言葉にしてはっきりと言ってのけたとき、ラビの胸は震えた。今度こそ、きっと!そんな思いが体中に熱さを伴って駆け巡っていく。

だが、、、モーセは片手をあげた。

「それには及ばない。わたしが守るつもりだ。」

一言、だが、迷いのない凛とした声音だった。

「ラビ、ハナを呼んでくれ。」

ラビは静かな眼差しをモーセに向けて頭を垂れた。ラビだって、ハナのことは心を痛めている。ハナが傷ついたり危険な目にあうことをよしと思っているわけではないのだ。ましてや、モーセの気持ちも今は痛いほどわかった。あの時、あの朝、損得も考えずジーナを追い詰めていたモーセ。ラビがモーセの下で働いて14年間になる。彼は冷静で、部族の生き残りをかける問題では、残酷で残虐にもなれる男だ。だが、どんなときでも、理性を保ち決して感情には流されない。なのに、、あの日、ジーナをじわじわと追い詰め、自ら手を下しかねなかった激情にかられたモーセ、、あんなシークは今まで一度たりとも見たことはなかった。

ラビの計画は最後までモーセが納得するものではなかった。それでもラビは自分の意思を貫き通した。モーセに首を言い渡されても仕方がないとまで覚悟を決めた。だが、モーセはラビを首にしなかった。そして、今ラビにハナを呼びに行かせた。つまり不本意ながらもラビの計画をすすめていくのだ。かなり危ない橋ではあるが、だが、今は、この方法が最善とラビは信じていた。今なら、敵も油断しているはずだ。ハナのあどけない笑顔を思い出した。



『お兄ちゃん、、信じてるから。』


弱弱しそうに笑った妹が、ハナの顔とだぶった。



『ごめんね、、、お兄ちゃん、、、』


最後に、そんな言葉しか残さなかった妹。もう二度とこんな思いはしたくない。どんなことがあっても今度こそ失敗はしない。ラビは妹の面影を払うように、ぎゅっと瞼を瞑り、心につぶやく。

(今度こそ。絶対に守って見せる。)

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