シークの涙

45.

ハナには、もうすっかり見慣れたモーセの書斎部屋だ。モーセと一緒に過ごしていた10日間、楽しくて楽しくて、日が暮れるとすぐに次の日が待ち遠しくなった。10日目にモーセから罰がとけたことを聞かされた。


『ハナ。もう明日からここで過ごさなくてもよい。お前の好きにすればいい。ただし、外にでるときは、必ず誰かと一緒に出掛けなさい。』


そんな風に言われ、正直なところ、理由わけもなく寂しくて、何だか泣きたくなった。ハナはモーセの宝のひとつになれればいい、ただそう思っている。彼が少しでも自分を必要としてくれる瞬間が訪れることを、今は疑いもなく切に願っている。なのに、モーセは何一つ、ハナに望むことはないように思えた。




ラビに言われ、モーセの書斎に入ってきたハナは何となく落ち着かず、モーセが腰を掛けている書斎デスクの前に、ちょこんと座った。なぜ呼ばれたのか、、まったく心あたりがなかった。

「実は、我々は、お前の両親の死に疑問を持っている。」

目の前に座っている美しい男から突然告げられた事実。

<え?>

ハナは書斎デスク越しに座った椅子の上で体を強張らせた。

「お前はどう聞いているのだ?母親は?何故死んだ?」

モーセは敢えてズバリと聞いていく。言葉を濁さずに、はっきりと“死“という言葉を使った。だが、ハナもそれに臆することなくスケッチブックにスラスラと文字を綴っていく。

【母は自殺です。途中から警察も殺人としても追っていたようですが確証がなく自殺で処理されました。父は服毒死でしたが、他殺だそうです。犯人は未だわかっていません。】

モーセに聞かれる前に、【犯人にも心当たりはありません。】とハナは書き加えた。

「そうか、、で、お前はどう思っているのだ?」
<え?>
「犯人を見つけたいのか?知りたいのか?」

ハナのペンを持つ手が震えている。まつ毛を揺らし下を向いた。頼りなげな肩が小刻みに揺れていた。

「ハナ、、、」

モーセがゆっくりと立ち上がり、真向かいに座っているハナの横でひざまずいた。大きな体もこうすれば、ハナの目線にしっかり合わせられる。モーセの大きな手のひらがハナの頭にふわりと触れる。もう当たり前のその動作に、ハナは安堵を覚える。

「お前がどうしたいのか、言いなさい。怖がらなくていい。わたしがいるのだから。」

モーセの低い声はいつものように凛と響くのに、何故だか、そこに優しさを感じてしまう。ハナはまつ毛をあげて黒い瞳でモーセをまっすぐと見つめた。そしてコクリと頷いた。頭を触られただけなのに、ハナの体はもう震えてはいない。しっかりとペンを持ち始め、サラサラと書き始めた。モーセは跪いたままそれを見守っている。

【母は自殺じゃない。と思う。】
「何故だ?」
【死ぬ前に客がいて、、、その人が、、、】
「その人が?」
【見たことない人だったけど、、怪しい、、と思う。】

ハナは手を止めた。どう書いていいのか考えあぐねている様子だ。

「ハナ、お前は知っているのか知らないが、お前のお父上は、我が国と密接なかかわりを持っていたのだ。」
<え?>

「この国の有力者が不治の病にかかった。それはお前が生まれるずっと前のこと。その頃お父上は、世界でも指折りの消化器系の内科医で、ずっとその有力者の担当医師だった。教授の名前はその分野でもかなり著名で、彼が声をかければ、世界から腕の立つ医師が集まり手術チームなどが組まれる。だから、この王国の有力者は、お前のお父上を崇め尊敬し、利用していた。それは、我々の調査でわかったことだ。お父上から何か聞いていたか?」

ハナが生まれてからは、小杉教授はずっと心療内科の権威として名声をはせており、最後は帝東大学病院で働いていた。子供のころ、父親の仕事がよく理解できず、医者だというのに、子供のハナが思うお医者さんのイメージとはほど遠かった。だから、幾度か母親のすみれに尋ねたことがあった。



『お医者さんも色々あるのよ。でもね、お父さんは、若い頃、ハナが思っているようなお医者さんでもあったのよ。聴診器を体にあてて、ぽんぽんと叩いたり、患者さんの痛いところを見つけたり、、今はちょっと違うお医者さんになっちゃったけどね。』


そんな風にすみれが答えるのを聞いたことがあった。あのときは、よく理解はできなかったけれど、今モーセが言ったことは、バラバラになっていた過去のピースに面白いようにぴったりはまる。ハナにとって想像しにくいことであっても、昔、父親が病院で普通の医者のように働いていて、そして、この王国の人間が患者の一人だった。そんな父親の姿が、なんとなくうっすらと想像ができそうな気がした。

ハナはコクリとまたひとつ頷いた。

「そうか。」

いくら書斎の床にふかふかの絨毯が敷いてあるとしても、長い間、モーセがハナの目の高さになるようにひざまずいている格好は、居心地が悪いのではないだろうか、、、ハナの思考が、そんな風にそがれた。ハナの瞳がじっとモーセを見つめる。漆黒の色が深くなり、モーセは怪訝な顔をした。

「どうした?何か思い出したのか?」

ハナは頭をぶんぶんと振って、両方の人指し指の先をツンとあわせて、ねじり始める。それはモーセでも知っている、痛い、という意味。

「え?」

一瞬、ハナが何か辛いのだろうかと、モーセの顔色が変わった。だが、ハナの視線がモーセの膝に注がれる。立て膝をついているモーセに対して、ハナが心配しているのだとわかった。

「まったくお前は、、、」

モーセは苦笑いをする。

「わたしのことはいい。しっかり聞きなさい。」

両手でハナの頬を包み込み、自分の瞳に向かせる。するとハナは真っ赤になって逃れようとする。最近、、ハナはモーセに触れられるとつい意識してしまう。それは仕方のないことなのだ。もう自分の心に嘘はつけないのだから、、、

モーセは抗うハナを無視するように、さらに力を入れ、彼女を見つめ、静かに話始めた。

「わたしは、いや、わたしたちは、お前のご両親を殺した犯人を捕まえようとしているのだ。」

ハナが息をのむ声が聞こえた。そしてすぐにモーセの袖を掴みいやいやと必死に頭を振る。それは、自分のためにモーセや、ラビやみんなが危険な目にあってほしくない、その一心で必死にハナは訴える。たとえ言葉にならなくとも、モーセにはハナの気持ちが何となく伝わってくるのだ。ハナのギュッとに握る指先が、衣服を通してモーセに伝わってくる。ハナが興奮していつも感情を露わにするときは、決まって誰かが、特にモーセに危険が迫ってきていると彼女自身が痛感するときなのだ。だから、モーセは彼女を落ち着かせようと、大きな手のひらを彼女の頭の上にひらりとのせる。

「大丈夫だ。まだ誰も危険な目にあっていない。それに、これは、お前だけのためではないのだ。」
<?>
「わたしは、ラビは、母国を愛しているのだ。この王国をよりよくしたいといつも願っている。だが、その中で、罪を犯したものが、しかも人殺しをしたものが、その犯した罪を償わず、ぬくぬくと生きていることが、わたしたちには許せないのだ。」

彼の指先が、ハナの柔らかな髪に降りてくる。モーセは遊ぶように長い指を、その黒髪にすっと何度もからめる。ハナを落ち着かせるつもりが、モーセは自分がこの上もなく癒されていることを知る。

「だから、お前の心の準備ができ次第、わたし達は早速犯人を炙り出す計画にとりかかるのだが、、」

ハナは本当に大丈夫だろうか、、心のヒダをひとつでも見逃さないように、モーセはハナから目を離さない。

ハナは黙って考え込んだ。そしておもむろにマジックを持った。

【平気、、、怖いけど、、でも平気。】

サラサラと書き綴る文字にはハナの正直な心情が表れている。

【今はみんながいるから、きっと平気。だから、見つけたい!】

ハナは読み返しながら、唇を真一文字に結んだ。

【お父さんとお母さんが死んだ理由を見つけたいの。】

迷いのないきっぱりとした言葉だった。けれど、もはや迷っているのはハナではなかった。それはモーセのほう、、、未だ往生際悪く決めかねているのは、モーセだ。ハナに危険が及ぶことを考えただけで、がらにもなく、隠している心の奥底に潜んでいる恐怖が顔を出しそうになる。



『今度こそ、シーク。ですからハナさんに協力を。』


ラビは絶対にハナの安全を確保し、犯人をおびき寄せると言ったけれど、“絶対安全” などという現実は存在しない。そんなのは、今までシークとして生きていく中で何度も直面していて、モーセならわかっていることだ。だからこそ、今まで色々な覚悟と共に、何かを得るために、何かを捨てる、そんな決断も否応なく行ってきたのだ。

(だが、、ハナが危険にさらわれる、、、かもしれない、、、、)



屋敷でタマール夫人の叫び声が聞こえ、ハナがいなくなったあの朝が蘇る。結果的に何事もなかったけれど、モーセはあのときのことを思い出すたびに、みぞおちのあたりがぎゅうっと痛む。不安になる。今まで感じたことのない恐怖に襲われるのだ。


「ハナ?」
<ん?>

「いいか。俺は、一度しか言わん。お前は、みんなにとって、、俺にとっても、大切な人間だ。」

<、、、、、>

「だから、どんなことがあっても俺が守る。どんなことになっても俺を信じろ。俺は絶対にお前を守る、守ってみせる。」

ハナの胸がじんわり熱くなった。喉に何かが込み上げてくるようで、苦しくて切なくなった。そんなことはもう知っている。ハナはモーセの宝ではないけれど、たくさんいる大切な人間の一人なのだ。彼はシークとして守るべき義務と責務を負う。モーセはいつだって両手を広げ、自分の守るべき人間を懐に入れる。ハナはやっとその両手の中にいれてもらえているのだ。

−−俺の宝、、、ーーモーセの宝、、、

ほしくても届かないものならば、それでもモーセの両手の中にいれてもらえるだけでもありがたいのだ。ハナはそう思って、クシャリと笑った。

<知ってる。あなたはいつでも絶対守ってくれるから。>

ハナの泣いているような笑っているような顔は、そう言っている。モーセはハナの信頼に応えたいと強く思う。自分の目の前にいる小さな体をすっぽりと包んでやる。ハナは抗らうこともせず、素直に、その大きな胸におさまった。衣服を通しても、モーセの逞しい筋肉質の体をハナは意識する。

「だから俺を信じろ。ハナ。」

モーセの声は低くハナの体から伝わってくる。何があってもモーセは助けてくれる、それは理屈ではない、ハナの心が叫んでいる、絶大的な信頼だった。

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