シークの涙

5.

40分近く走ったところで、景色がガラリと変わった。ひときわ大きな屋敷のある町並みに姿を変えていく。ハナは初め、レストラン・ホテル街だと思ったものだ。何故なら、家の一軒一軒が、大きすぎる。家の形をしたばかりのホテルがひしめく街だと言っても過言ではなかった。ハナの驚きをいち早く察したラビが優しく声をかけた。

「ここは、わが国でも一番大きな屋敷が集まる、リッチ・レジデント街なのですよ」

屋敷密集地は、見晴らしがいいように、ナイヤリ シティのビル街を一望できるように、小高いところに一斉に建てられている。やがて、車は徐行し始め、ペルーシア国立病院と書かれた看板を見つけ、吸い込まれるように、そのゲートに入っていく。大きな駐車場を横断して、神経科内駐車場で車が止まる。ハナの体がピンとなった。降りる準備をし始める。と言っても、少ない荷物は、すでに車のトランクだし、手に持っているのは使い古しのショルダーバッグだけだ。気がつけばモーセの瞼はいつのまにか開いており、ハナをじっと凝視していた。ハナはその視線を感じて、モーセと目を合わせる。そして、ありがとうございました、と言うように、自分の顔の前で片手で拝んだ。ハナが降りようとしたそのとき、いきなり、腕を引っ張られた。モーセの大きな手だった。

「ラビがドアを開ける。」

それまで待てと言っているのか。モーセの口から出る言葉はいつも短くて、周囲の人間は、戦々恐々で理解するのに苦労する。だが、ハナには、その短い言葉は、とてもわかり易い。モーセの言葉は、いつもその場の的確な状況を表現していた。ラビが後部座席のドアを開け、ハナに手をのばした。ハナはおそるおそる、その細い腕を差し出して、ラビに掴まる。ラビが優しく微笑むと、ハナは少しばかり顔を赤くした。

二人に向かって頭を下げた。こんなに親切にしてもらって、どうすればお礼ができるだろう。ハナは考える。考えている側から、モーセが大きな足幅で、サっと風を切るように歩き出した。

「置いてくぞ。」

一言低い声で唸り、後ろを振り向かずに行ってしまう。

『えええええええええ?!』とハナの顔にはまさに困惑の表情が浮かんでいる。ラビは笑いながら、『さあ、行きましょう』と促した。そして、モーセより先へと歩を急ぐ。ハナは、自分の荷物を取ろうと、きょろりと見回している。同情しきりの運転手がラビを指差した。彼がちゃんとハナの小さな荷物を持って、モーセに追いついているところだった。運転手にお辞儀をして、彼女は二人を見失わないように駆け出した。

前の二人は、何の迷いもなく足を進めていく。ただ、後ろからチョコチョコついてくるハナが迷子にならないように、いつもより少しだけ歩をゆるめているのだが、それにハナが気がついているかどうは不明だ。とにかくハナは、これ以上はぐれないようにと、必死に後についていくばかり。やがて、二人の男は、白いドアの前で立ち止まる。『ドクター サビーン エリアス 神経科』と彫られたメタルのプレートがドアの正面に下がっている。呼び鈴らしいものがあるのに、それを無視するように、モーセがドンと一度ノックしてドアを開けた。

「ちょっと、こまり、、あ、、シーク!これは失礼いたしました。」

エリアス博士付秘書が、顔を赤らめながら、シークにボーっとなった。

「すみませんね。マル、シークが無作法で。博士はいらっしゃいますか?」

人あたりの良いラビがフォローするも、秘書のマルの答えを待たず、モーセはズカズカと中へ進んでいく。廊下で、立ち止まっているハナは、中に入っていった二人を見ながら、どうしようかと躊躇しているようだ。

部屋の中には、大きな巻き毛をくるんくるんとさせた艶のある黒い髪を肩までたらしている女性が、机にある山のような書類に目を通していたらしく、騒がしい入り口に目をやった。瞳が茶色で睫毛が長く、ペルーシア人らしい彫りの深い華々しい顔立ちだが、どこか、モーセと面影が似ているようだ。

「フン、ご挨拶だな?サビーン!」

「モーセ!」

女は満面の笑みをたたえてモーセを迎えた。このペルーシア王国の中で、彼のことをシークと呼ばず、名前で呼ぶ女は数少ない。

「あっ」

いつのまにかハナが部屋の中央に出てきて、サビーンと呼ばれた女に抱きついた。モーセもラビも唖然としてその様子を見つめている。

「ハナッ!ハナ!」

抱きつかれたサビーンは、ハナの名前を何度も呼んで、ぎゅっと愛おしげに抱きしめた。椅子に座ったまま飛びついてきたので、ハナの小さな背でもサビーンの首に腕が回された。ひとしきり感動的な抱擁が終わると、サビーンが小さなハナの体を優しくおしやろうとする。顔を見たいのだろう。だが、ハナはサビーンの柔らかいスタイルの良い腰をぎゅっと抱きしめ離そうとしない。やがてサビーンは諦めて、抱きしめられたまま、ハナの耳にささやいた。

「トバリ、わたしの助手、空港、いなかった?」

ハナは嫌々をするように、首を横に振った。やがてゆっくりと顔をあげた。ハナの黒く大きな瞳は泣き濡れているようで、キラキラと寂しげに揺れていた。サビーンはその表情に、胸の奥が切なくてたまらない気持ちになった。すでに二人の横で熱い抱擁を見ていたラビも、サビーンと同じ気持ちなのは、その顔をみれば明らかだった。ただ、モーセだけは、益々不機嫌そうに、それでもハナの瞳から視線をはずそうとしなかった。

「トバリって誰だ? コレをピックアップするべき男か?」

低い声でコレなどと言われ、ハナは馴染みある声の方をチラリと見た。一瞬二人の視線がからまった。だが、視線をはずしたのは、モーセだった。

「空港には誰も来てなかったようだ。」
「うそよ。ちょっと、待って、、」

サビーンの綺麗にトリミングされた指先が、スマホ画面をタッチしていく。

「ちょっと、トバリ、今どこ? 、、、えっ?、、、、何言っているの? 何でそんなとこに? もう遅いわ。ああ、もういい」

サビーンの怒りがスマホに八つ当たりされ、乱暴に通話を切った。

「ごめんね、ハナ、ごめんね、、バカな助手が、時間を待ちがえてた。」
「ふん、ペルーシア民族の特質だ、時間にルーズなのは。それを知っていながら、お前がきちんとアレンジできなかったのだ。サビーン、お前の失敗だ。」

モーセは淡々とした口調だったが、その言葉は、サビーンを落ち込ませるには十分だ。すると、ハナがサビーンの顔を下から覗き込んだ。小さな手がせわしなく動き手話で言葉を伝え始めた。

<大丈夫。気にしないで。サビーンに会えたから嬉しい。それに、この人たち親切で連れて来て貰った。>

ハナの手が、サビーンの頬をなで、まるで心配するなとでもいうように。

「そうだったわね。モーセが連れてきてくれたの? いえ、多分ラビね、ありがとう。」

さすがにサビーンはモーセの従姉妹であり、従兄弟の性格をよく知っている。だが、今回だけはそれが外れた。

「いえ、サビーン様、シークがおっしゃったのです。ハナさんを連れてくるようにと。」

正しくは窓から指先が出ていてクイクイとラビが呼ばれただけだが、まあ、意訳すれば、モーセがハナを車に乗せたことになる。

「珍しい。我が従兄弟殿が? へえ、どういう風の吹き回し?」

サビーンは先ほど落ち込んだことも忘れ興味深そうに目を輝かせた。傍から離れないハナを自分のデスクの隣に置いてある椅子に座らせた。すでにモーセは、勧められもしないソファーにドサリと座っている。ここでも長い足を持て余す。

「金ぐらい、いくらでもあるだろうが。もっとマシなソファーを買えないのか?」

サビーンはモーセの言葉を無視して、ラビに話の先を促したのだが、、

「その前に その娘の右腕を見てやれ。痛めているようだ。」
「「えっ?」」

サビーンが声を上げると同時に、ラビもそして、ハナ自身ビックリした顔でモーセを見つめた。

「ちょっと、袖を、、あ、、」

サビーンがいとも簡単にハナの右袖のボタンも外さず、輪っかになったまま、すっと上にあげた。中から、細い貧弱な腕が現れて、そこが赤く腫れあがっているようだ。サビーンが触る。

「大丈夫?」

ハナは頷く。先ほどより強くサビーンが押せば、ハナの顔がたちまち歪んだ。

「骨は折れてないけど、打撲ね。
だけど、転んだ? こんな広範囲まで打ち身が広がっている。」

「だから、まともに水の蓋も開けられないのだ。」

モーセがフンと鼻を鳴らした。ラビは、『あっ』と思う。そうだ、NY空港で確かマダムヤンスのカートにぶつかったハナの体が床に吹き飛ばされていた。あの時だ。だが、、、ラビは、不信そうにモーセの顔を見た。ラビだって忘れていた事を、なぜこの男は覚えていたのか? いや、他人のことなど全く興味のない男のはず。何故、、15年間シークの元で働いてきた自信が、今日だけで一気に崩れていきそうだ。初めて見るシークばかりだった。

手当ては簡易で、それだけ腕の傷はたいしたことがなかった。ただ、打ち身は今日明日と痛むからと、サビーンは秘書に持ってこさせた冷感シップを右腕に張ってやる。サビーンは医師の顔をしてラビに向かって言った。

「今はまだ打ったばかりで、腕に熱持ってるわ。明日以降、腕をさわって、熱がないようなら、温感シップを張ったほうがいいわ。女の子だから、痣が早く消えるようにね。」

手当てをしている間、サビーンはラビに経緯を尋ね、ラビも愛想よく説明をしていた。

「ねえ、ハナがわたしのところに来るってどうしてわかったの?ラビ?」
「全ては偶然だったのです。サビーン様。」

その間、モーセの瞳はじっとハナを観察しているようで、視線をそらさない。ハナは時折モーセの視線を感じ、困ったような顔を彼に向けるものの、目が合うと、モーセは視線をそらす、その繰り返しだった。こんな光景は珍しいことで、明日ペルーシアに雪が降るよりももっと貴重な光景だといえる。

「運命かしらねえ?フフフ。よかったね。ハナ。」

ハナはコクリと頷いた。

「モーセは怖いけど、本当はいい人だから安心してね。」

ハナはあどけない笑顔をサビーンに向けて、手話で話す。

<怖くない。とてもとても心の綺麗な人だよ。>

サビーンがびっくりした顔でモーセを見る。

「フン、ワカラン言葉で話しやがって、さて、ラビ、そろそろ行くぞ。」

スラリした彼の均整のとれた肢体が立ち上がった。サビーンは何かをじっと考えているようだったが、やがて、素早い手話でハナに話しかけ、ハナの大きな瞳が一掃大きくなった。

「ねえ、モーセ。お願い。ハナ泊めてやって。」

「、、、?」

突然の話にさすがのモーセも言葉が出ない。

「お願い!あなたのところにおいてあげてよ?ハナが慣れるまでの間、お願い。」

サビーンは従兄弟に甘える妹のように、お願いをする。昔から、こんな風にして結局、モーセの首を縦に振らせている。

「ずっと気にしていたの。ハナが来たら、本当はうちに泊めるつもりだったけど、、
わたしんちは、アパートメントだし、日中夜わたしが働いているとき、ほとんどハナ一人になっちゃうでしょ? モーセのところなら、まず、使用人がいつもいるから安心だし、部屋だってあるし、あなた、従姉妹の頼みを『NO』っていうほど度量は狭くないわよね?」
「まったく、呆れてものが言えん。学者というのは、常識から逸脱しているようだ。フン」
「あら、合理的な思考回路だって言ってよ。」

「何がだ。何の説明もなく、見ず知らずの子供をなぜわたしが世話をしなきゃならん。」
「あら、世話はする必要ないでしょ? お部屋を貸してって言ってるの?何? それともお金を払えって言うの?」

サビーンは知っている。モーセは、小さいころから、シークとしての自覚を常に意識して生きていた。家族や身内などの面倒見がすこぶるよい。それがシークの責任のひとつであると考えていた。子供の頃、『今日はわたしが奢ったあげる』などとサビーンが言えば、小さなモーセは意思の強そうな眉を動かして怪訝な声を出した。



『僕が出す。お前が出す理由がない。』



現に今のモーセはむっとしたように、サビーンの挑戦状と思える言葉を打ち消した。すでに彼はすっかり身内だけの気軽さで、『わたし』というビジネスモードから『俺』仕様に変えて、さらにサビーンに向き合った。

「何故、お前が金を支払う話になるのだ?俺にはさっぱりわからん!」

このままでは埒があきそうにもなく、ラビが冷静に妥協案を出した。

「今日は色々なことがあり、シーク、あなたがお疲れだと存じます。とりあえず、ハナさんをお泊めになってはいかがですか?ハナさんのことはわたしが明日まで一切合切責任を持ち、シークにはご迷惑をかけないということで。その後については、明日以降サビーン様と話し合われてください。」
「フン。」

モーセはそのまま、サビーンに暇乞いも告げず、まして、その場にいる秘書も無視して不機嫌そうに部屋を出て行った。

「ごめんね、ハナ。でも大丈夫だから。明日、会いに行く。ね?
明日ゆっくり話そう。」

ハナも疲れているようで、とにかく今日はどこでもいいから、眠りたい、そんな様子が顔に表れていた。ラビが優しくハナの背中に腕をまわし、部屋を出るように促した。

「それでは、サビーンさま、明日夜お屋敷でお待ちしております。」
「うん、ごめんね、ラビ、ハナのことよろしく。」

最後はペルーシア語でラビに言葉をかけた。つまり、モーセがいる間は3人はずっと英語でしゃべっていたのだ。それは、モーセが空港からずっと初めから英語で話していた為で、サビーンもラビもその流れで英語で会話することになった。何とも不可解なモーセの行動だ。まさかハナがペルーシア語がわからないことを考慮したのではあるまいが、、いつもの気まぐれでそこには何の理由もないのかもしれない。サビーンはドアまで二人を見送り、心配そうにじっとハナの後姿を見つめていた。

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