シークの涙

7.

自分の思考が、ハナに邪魔立てされていることに気がついて頭を振った。夕食のとこのことなど頭から追い出して、それでも未だ眠気に襲われない不眠を持て余しながら、書類に目を通す。だが、何かにつけて思考が、今日のあの奇妙な客人に邪魔されるのだ。

(不思議な女だ、、、)

モーセはそう言わずにはいられない。誰もがモーセの前で、恐れ慄き、萎縮をする。特に商売敵からは、出来れば一生顔を会わずにすむのならそうしたい、そう思われているはずだ。まあ今のモーセの前に商売敵すらも存在しない、それが事実ではあるのだが。そんなモーセにハナは怯える様子もない。親しみやすさでは、ラビのほうが遥かにモーセよりも上だ。現に、ビジネスなどでも、モーセに直接コンタクトをせず、ラビを通してモーセの耳に入って来る場合が多いことを考えれば、やはりラビの如才ない人柄は万人にとって接しやすいに違いない。そしてラビもそれを承知しており、ちゃんとそのことを利用する抜け目のないところがある。だからこそモーセは、ラビを随時自分の傍に置いている。それなのに、ハナはラビにはあまり心を開いていない。いや、彼女は人見知りなのだろうか。それにしては、いきなりモーセに心を開いているのもおかしな話だった。

結局モーセは、ハナの幼い顔をまた思い出している。まあ、たまには変わった余興も必要か、などと一人ごちながらデスクに置いてあった水割りを口にした。

/シャッ、//サッサッ、、スーッ/

廊下でかすかに物音がした。軽いすり足のような音と、誰かが壁に手を触れながら歩いているのだ。何となく物音の主は容易く想像できた。放っておけばよい、いくら初めてのところだからといって、迷子になってそこで野垂れ死にするわけでもあるまいし。

/シャッ、シャッ、スーッ、サッ、、、/

微かな音なのだが、一度耳についてしまうと夜中の静寂にその音だけが響く。モーセはため息をついておもむろに立ち上がった。ラビは勿論今夜はモーセ邸に宿泊している。ハナの面倒は自分が見ると豪語した彼だが、こんな夜中によもやこういう事態が起きているとは予想もしていなかったに違いないし、第一、彼の寝室からはハナの寝室は少しばかり離れている。ラビを責めるわけにもいかないだろう。モーセは迷いのない足取りで書斎のドアを開けた。どこまでも続く広い廊下にはダウンライトが薄く足元を照らしている。目の前に、やせ細ったハナの背中が見えた。


背後からいきなり声をかけてはと思い、ゆったりとした足取りで、彼女の肩をポンと叩いた。その途端、まるで子猫が飛び跳ねたように、ハナは驚きのあまり体をビクンとさせて振り向いた。手にしていたグラスを落とした。

/ガチャアアアアン/

無残にも大理石の上でチェコグラスが飛び散っていく。

状況を理解したハナは、口を両手で押さえ、驚愕のあまり瞳が落ちるくらい目を開いてモーセを見つめていた。そしてすぐに謝りのジェスチャーをしたかと思うと、彼女はしゃがんでグラスの破片を拾おうとする。

「おい、バ、バカッ!」

モーセがあわてた。ハナの足は素足だった。

「いい、拾うな、そのままに、、」

それでもまだ拾おうとするハナに、やおらモーセは彼女を抱き起こし、そのまま自分の胸まで抱き上げた。ひょいと何の苦もなく、お姫様抱っこをする。そのあまりの軽さにモーセは驚いた。確かにハナを抱き上げていて、その証はハナの触れている場所から温かさがモーセに伝わっている。だが、華奢で小さいその肢体は、羽のような実体のない軽さにさえ思える。

ハナはキョトンとびっくりしたままだ。逞しい腕でしっかりとハナを支え自分の胸に抱き上げて、彼女の両腕を自分の首に回すように、大きな手でハナの両手を導いた。

「拾わなくてもいい。」

一言ボソリといったのだが、ハナが以前とキョトンとしていたので、子供にでもわからせるように身振りで教えてやる。ハナがしっかりモーセの首につかまり場所を確保したのを確認してから、モーセは自分の片手を解放し、その自由になった手で、大きく合図を送った。

廊下を指差し、ハナの目の前で、ノーノーとでもいうように手を振った。そして、今度はハナの足元を指して、また、同じように手を振った。これで十分だった。ハナはこっくりと頷いて、ごめんなさいとでもいうように、モーセの胸にコツンと頭をつけた。モーセは無言で大またでガラスの破片をよけながら長い廊下を進む。モーセの逞しく大きな体がゆっくりと揺れる。しっかりと抱きしめられたハナの体はビクともしなかった。

「むっ」

モーセの首筋に圧迫と温もりを感じた。

ハナがギュッと彼の首筋を抱きしめていた。モーセが彼女の顔を見下ろせば、ハナは瞳をしっかり閉じていた。だが、その顔はどこか甘く夢見心地のように思えた。モーセは何か気恥ずかしい気持ちに襲われる。

「何だ、くそっ、、、」

親鳥を失った雛のスリコミ現象のようなものなのか、何故ハナは、初めてあったばかりなのに、こんなにもモーセに全信頼を置けるのだろうか。

(不思議な娘だ。)

ハナの寝室の前に行き、少しだけ開いている扉を足で、トンと開けた。ベッドのところまで行き親切に、その上にハナをおろしてやる。ハナが恐る恐る目を開けた。

「何故、召使を呼ばなかった?」

咎める口調でモーセが尋ねた。あわててナイトテーブルの横においてあったスケッチブックにスラスラと書き始めた。ハナは経験上、いたるところに紙と書くものを置いている。ハナは書いている間、モーセは客室の寝室をじっくりと見回した。自分の屋敷とはいえ、滅多に来ないし、客用の部屋など興味もなかった。豪華な調度品が飾られていて、タマール夫人の趣味は実に品がよい。だが、、、ハナがポツンとこの部屋にいるには、何もかもがそぐわないように思えた。腕をくいくいと引っ張られた。モーセは視線を紙にやる。

【喉が渇いて、、バスルームの水道が飲み水かわからなかったので、、だから台所を探していたのですが、あまりに広くて迷ってしまいました。】

まさにモーセの想像通りの答えだった。水差しには水が入っていたはずだが、おそらく、喉の渇きで全部飲み干してしまったのだろう。

「だから、何故召使を呼ばなかったのだ?」

少しだけイライラが募り先ほどより大きな声だった。だが、ハナはひるまない。あわててまた付け足した。

【夜中に迷惑をかけたくなかった、、】

そこまで書いているハナに、いきなりモーセの手が伸びた。下を向いた彼女の顔をクイッとあげてモーセの方に向かせる。

「いいか? 結局、こんなことになって人に迷惑をかけているのだ。それから、うちの召使は、24時間休まない。」

勿論それはシークの横暴ではなく、屋敷に勤める者たちは、夜間と昼間のシフト制になっている。

「そのために俺は金を払ってる。だから仕事をさせなければ、彼らの仕事はなくなり職を失う事になるのだ。わかったか?」

はっきり言われ、ハナの瞳が初めて悲しそうな色を帯びた。モーセに怒られた恐怖ではない。おそらく、自分のしたことが結局のところ多大な迷惑に繋がった事を反省しているに違いない。彼女はうなだれた。泣いているように見えた。その姿を見たとき、モーセの胸に何ともいえない罪悪感が襲ってくる。キリリ、まさに心がそんな音をたてた。

【すみませんでした。だから首にしないであげてください。】

ハナは泣いているわけではなかった。再び紙に文字を書いている。使用人の行く末を心配して、モーセに訴えかけている。ハナの黒い瞳は、不安気に揺れていて、それはまるで濡れているようにも見えた。行くあてもない捨て犬の懇願のような哀れさがある。

「あたり前だ。俺はワンマンだが、理不尽はしない。今夜のことはお前が100%悪いのだからな。」

モーセはハナを責めたつもりなのだが、その言葉を聞いたハナの顔にパッと笑顔が広がった。

<ありがとうございます。ありがとうございます。>

体いっぱいのジェスチャーでモーセにお礼をする。何とも無邪気だ。モーセは何だかいつのまにかハナのペースに自分がはまっていくようで不快感を募らせる。

「俺はもう寝る。」

ハナにクルリと背を向け、躊躇無く部屋を出て行った。後ろを振り向かなくてもわかる。彼女の視線はずっとモーセを追いかけている。彼は背中に痛いくらいの視線を感じていた。

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