俎板の黒猫

3.

「知りませんよ、設楽さん、、、わたしにユリタの保護者でついていけって言うんですか?」

さすがの美和子に呆れられてしまった。確かにそうだよなあ、と言わんばかりに涼は前髪をかき上げた。いつもはゆったりとしたカフェの雰囲気も、ランチタイムとなれば話は別だ。働く女たちでほとんど埋め尽くされ、笑い声があちらこちらから聞こえてくる。フロアーは解放された女たちで結構な賑わいをみせている。

「わたしだって出来ることと、出来ないことが、あ!」
「な、なに?」

美和子の突然のフリーズに、妙案でも浮かんだかと涼の瞳は期待に満ちる。ところが、、

「あら、ここにいたのね?」

ザワザワとしたランチタイムの喧騒の中でも、心地よい聞きなれた女の声が耳に届く。普段なら運がいいと思う涼だが、今は少しばかり後ろめたさを感じ、背中がビクリとなった

「な、な、なに?く、倉沢、どうしたの?」

あわてふためく涼に、ゆり子はしれっと落ち着いた態度でもっともなことを言う。

「お昼ですけど?」

ここは、ゆり子と美和子のお気に入りのカフェで、会社から少し離れているのと、ちょいとメニュー価格がお高く設定されているため、滅多に社の連中と鉢合わせにならないのが、いいらしい。昼前に、ゆり子は電話会議だとかで、その隙に、涼は美和子を誘い、くだんの相談ごとを持ち込んでいたのだが、どうやら、ゆり子の会議も長引かなかったらしい。ゆり子は、涼たちのテーブルの隣に座り、Aランチを注文する。涼と美和子はすでに食べ終えて、コーヒーを待つだけになっていた。

「カナダ?また、電話会議、、?」

確か、バンクーバの工場で欠品が出たというので、現在調整中だと、涼は部下の諏訪がわめいていたのを思い出す。

「一応4月まで何とか持ちこたえれば大丈夫そうですけど、、」
「わかった、午後、諏訪にそっち行かせる。」
「あ、じゃあ15時にSCMの第一室おさえておきますから、マーケも入れて会議ということで。」
「ん、オーケー。俺に出来ることある?」
「設楽さんには、一応全体の流れを把握していただければ、、、」

二人の会話に美和子の声が落ちてくる。

「ちょっと、ちょっと、憩いのランチタイムのときくらい、やめてよ、二人とも、仕事の話なんて。逆流性食道炎になっちゃうわ!」

相変わらずの美和子のペースに、ゆり子は瞳をくすりと細める。涼の大好きなゆり子の表情のひとつなのだが、残念なことに、こういう顔は、涼の前ではなかなか見せず、滅多にはお目にかかれないのだ。

「それよりも、ユリタ、何?愛しい恋人相手に、どうしてそう色気もない話ができるわけ?!」
「え?」

びっくりしたようにゆり子の瞳が広がった。美和子と話すゆり子は、くるくる表情が変わり、それがちょっとだけ涼には腹立たしい。自分の前では未だ遠慮がちなところがまだまだあって、だが、ときたま涼の前で見せるゆり子の素には、その稀有さもあいまって、胸がキュンとくるから困ったものだ。

「未だにそんな喋り方してるの? “倉沢さん?” “設楽さん?”」

わざと苗字を呼ぶ美和子。

「え?だって、設楽さんは設楽さんでしょ?」
「まあ、会社だしね、二人っきりのときは、また違った呼び方してるんでしょ?ふふ。」

「いや、倉沢は、いつどんなときでも、どんな場面でも、、設楽、、さん、だよな?」

涼が少しばかりいやらしさを込めた目つきでそういえば、ゆり子は真っ赤になった。

「お、親父っぽい言い方やめてください!設楽さんだって、わたしのことは倉沢って呼ぶじゃないですか?」
「え?じゃ、俺、名前で呼んでもいいの?ゆり子って呼んでもいいの?ねえ、ゆり子?」
「ちょ、ちょ、ちょっと、やめてください、もお!」

首元まで赤く染めながら、ゆり子は仰ぐように手をバタバタと動かした。珍しく動揺しており、本当に恥ずかしいようだ。

「うわ、でも、設楽さんに、ゆ・り・子、って耳元で囁かれると、ちょっとやらしい、きゃああああ。」
「も、もお!美和子っ!」

ついにカラカイ出した美和子にもゆり子は怒った声を出した。

「ふふ、照れ屋ね、ユリタ、小学生レベルよ、それ、フフフ。」

美和子は嬉しそうに笑い、未だ赤みのひかないゆり子は、目の前の汗のかいたグラスを手にとってグイっと飲んだ。

「あ、そうだ、ユリタ、今度の金曜日の女子会、設楽さん、心配してたよ?」
「げっ!」

いきなり何の前ぶれもなく、涼にカウンターパンチをお見舞いする美和子に、涼は、飛び上がった。一応デリケートな話なのだから、聞くには聞くで涼にだって覚悟というものが必要なのだから。

「お、おまえなあ、」

あせる涼をしり目に、ゆり子は、『ああ、そのこと、、』と口の中でつぶやいた。涼はおそるおそるゆり子の顔を見ながら、真剣な口調で確かめる。

「おまえ、本当に行くの?」
「え?ええ。」
「嫌な思い、、するかも、、よ?」

涼の言葉に、『何でですか?』とは聞かない。ゆり子はすべてを承知で、行くつもりらしい。

「しかたないですよ。どっちが悪いわけでもないですし、、、」

そう達観されたように言われてしまうと涼も何とも言葉がでない。その代わりと言ってはなんだが、美和子がイキイキとしながら、とどめを刺してくる。

「あら、悪いっていえば、悪いですよ!設楽さんが! 第一、見境なく手だすから、こういうことになっちゃったんですから!」
「お前なあっ!」

「でも過去のことだから、、美和子、、、」

ポツンと言うゆり子に美和子もまた、『そうだね、、』と返した。

「ただ、、、向こうが今わたしが設楽さんと付き合っているのを知らないのが、面倒というか、なんというか、、、」

ゆり子の憂鬱のタネはまさにそこだった。前も、後輩女子社員と飲むと、涼のことが話題になり、きゃぴきゃぴとみんな平気で涼とのプライベートを想像して話題が繰り広げられていくとき、ゆり子は何とも言えない罪の意識に陥って困ると言っていた。


『設楽さん、今付き合ってる人いなそう?』
『チャンスだよ、コクっちゃう?』
『わたしは寝たい!すごいテクもってそうだし?』
『きゃあああっ』

かわいい女子たちのこんなピンクな会話を、現実問題、今、”涼の彼女” として、どうやってその会話に対応すればいいかということに悩まされるわけだ。二人の仲を公然としてしまえばいいのだろうが、それも今のゆり子には踏み出す一歩が出せないらしい。涼としてみれば、後がどうなろうと、とりあえず、ゆり子を自分の女だいうことを世間に言ってのけたいわけだが、肝心のゆり子の気持ちが伴わなければ、どうしようもないというものだ。

「でもさ、マジにユリタ、考えた方がいいって。」
「え?どうして?」
「いつも飲んでる年若の女子会のお花畑会話じゃないからね?トウを過ぎた女は、虎視眈々と今でも隙あらば狙ってるんだから。」

『トウを過ぎた美和子』は自分を棚にあげているのか、それとも含めているのか、とにかく恐ろしい言い方をする。

「何を?」
「ばかねえええ、この人に決まってるじゃない!」

すでに固有名詞を飛び越して、美和子は、人差し指で目の前の男を指差した。

「うっそ?」
「うそだろ?」

ゆり子だけではなく、同時に、これには涼も声をあげた。

「だって、みんなもう既婚者でしょ?すでに過去の話だし、、」
「マジに、アイツらとは終わってるし、ありえないって、な?」

何故だか不自然なのだが、とりあえず、涼はゆり子に同意を求めた。

「とにかく、ユリタが何と言おうと、今回の飲み会は、絶対にユリタの値踏み会に決まってるわ。大方、奥様然になって暇を持て余してて、、それでもわたしって幸せなの、ってことを確認して優越感に浸りたいのよ。」

美和子の言葉は悪いが、確かに、女の底にはそういった黒いものが隠されていないとは言い切れない。涼はだんだんゆり子が心配になってくる。だが、、

「なら、優越感に浸らせてあげればいいわ。別に、痛くもかゆくもないもの。」

美和子は驚いたような顔をして、ゆり子の顔をまじまじと見た。

「な、なに?美和子?」
「何か、ユリタっぽくない。どうしてそこまでして会いたいわけ?だって、当日のメンバーって特別仲良かったわけでもないじゃない?」
「そう?でもユミとは、、仲良かったけど?
「ふうん、、、」

“ユミ” とは例の涼が顔も思い出せないゆり子と比較的仲の良かった同僚、柏由美子のことだ。美和子は、何かを探るようにじっとゆり子を見つめたままだ。ゆり子は何となく居心地が悪くなったのか、涼と美和子の前に置かれたコーヒーに視線を向けた。

「ほら、飲んじゃないなさいよ?二人とも、お昼休み終わっちゃうわよ?」

もっともらしいことを言って、これ以上の話題を避けたように、その話は結局そこで打ち切りになってしまった。涼は何ともやるせなく、コーヒをすするが、ゆり子の強情さを知っているだけに、もう何も言わず成り行きに任せることにした。





*****

その日は珍しくSCM部署は何事もなく平穏無事に就業時間が過ぎていく。フロアーのスタッフは、週末という嬉しさも手伝って、一人、また一人と早々と足取りも軽く帰って行った。

「うわ、倉沢さん、超、かっこ可愛いっす。」

就業時間をとっくに過ぎてゆり子が帰り支度をごそごそとしているところへ、牧川が顔を出した。今夜の涼が修羅場になるのか否か、そんな実情を知ってか知らずか牧川はゆり子を見て賛辞の声をあげた。

今夜のゆり子は、女友達との飲み会に合わせ、一応は美和子のアドバイスを参考に、イヤミにならない服装を心がけているようだ。髪は、いつもよりとふっくらと柔らかい結び方で、後ろ下方でシニヨンでまとめた。勿論トレードマークの額は、=涼がいつも見惚れる= きっちり今夜も出している。本当はいつものような活動的なパンツやタイトスカートなどをはくつもりだったゆり子は、結局美和子の助言を聞く羽目となった。



『いい?そういういつもの恰好だと、いかにも働いていますって感じでキャリアっぽくなっちゃうから、ユリタ、ここはもっと柔らかなファッションがいいって。』
『ええ?でも別にそんなの意識していつも着てるわけじゃないし。』
『ユリタがそうでなくても、奥様方は、そう思ってイヤミに取られる可能性もあるんだって!』



ゆり子がモヘアのニットコクーンワンピースをストーンと身に着けても、モコモコした感じにはならない。それどころか、そのすらりとした肢体に優雅にまとわりついて上背を余計シュッと見せていた。ふわりと優しいベージュの色は、彼女の顔を柔らかくみせて今日のヘアスタイルとよく似合っている。

「倉沢さんって、ピンクとかつけると、マジ、かわいっすね?」

耳元で光沢を放つピアスを見ながら、くったくなく笑う牧川からこぼれ出る言葉は、他意がないだけに、余計ゆり子は照れ臭そうで、少しだけ頬を染めた。

「ありがとう。」

薄桜色のパールのピアスと、金糸の入ったロイヤル・パープルのスカーフショールで首のまわりに色を添える。

「ね?牧川君もっと褒めてあげてよ、まったくユリタは褒め慣れないから困っちゃうわ。わたしが褒めても本気にしないんだから。」
「はいはい。ありがとう、美和子。」

「本当ですって、倉沢さん、自然な感じで素敵ですって!」

SCMのフロアーには、まだ女子スタッフが数人残っていたが、みな気心の知れたゆり子たちの大切な部下ばかり。牧川と同期の日比野サチも話題に入り込む。

「ふふ、牧川、惚れ直しちゃうでしょ?かくいうわたしも倉沢さんのファンだもん。」
「おまえはレズか!」
「ふふん、かっこいい男がいなさすぎるんだって!ってことは男であるアンタの責任でもあるんだからね?!」

二人のいつもの小競り合いも花を添え、ゆり子出陣のムードを整えていく。牧川は、ひとなつっこさそのまま、そそっとゆり子の側で、小さくささやいた。

「設楽さんにその姿見せたら、やばいことになると思いますよ?」

などという牧川を適当にあしらないながら、ゆり子は、美和子にすまなさそうな顔をして手をあげた。

「ごめん、お先。」
「うん、大丈夫、わたしたちもそろそろ上がるから気にしないで。」
「うん、じゃ、」

牧川や残っているスタッフに挨拶をしてゆり子は颯爽と部屋を出ていく。その後ろ姿に牧川のため息が漏れた。

「やっぱいい女だなあ。はあ。」
「だったら、牧川君わかってるね?」

鬼軍曹ならぬ、美和子の声に牧川の背筋が伸びる。

「はい。美和子さん、任しといてください!」

何となくうっすらと、美和子たちの企みを知っている日比野サチが怪訝そうな声を出した。

「そんなに倉沢さんの元同期って嫌な女たちなんですか?」
「嫌な女ってわけじゃないけど、いい女と自負している女たちばっかだからね。まあ、彼女たちも家庭があるだろうから、そこまでは遅くならないだろうし、、、」

美和子は、サチに対して答えにならないような返事をする。

「けど、一番のわたしの心配は、ゆり子が一番仲良しだと思っている女。この女が実は一番クセモノなんだよねえ。」
「へええ。やっぱ美和子さんって怖いなあ。観察眼半端ないですものね。」

日比野サチが感心したように美和子を見た。

「今回は、わたしの取り越し苦労であることを願うわ。まったく、どいつもこいつも手がかかる。」

最後は、おそらく涼に対しての不平でもあるのであろうが、その辺は口の中でゴニョゴニョとつぶやいた美和子で、もちろんサチには聞こえなかった。ただ、牧川は何やら美和子にそっと頷き部屋から出ていく。部外者のいなくなったSCMフロアーはしばらく、またキーボードをたたく音だけが聞こえ始め、美和子も仕事に集中していった。
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