俎板の黒猫

5.

/トントン/

涼は、おそらくゆり子だろうと思いながら、ウィスキーのグラスをテーブルの上に置いた。ただ、こんな時間に彼女の方からやってくるなんて、珍しい。時計をみれば、両針がもうすぐ24時をふれる時間。もう少ししたら、メールでもして、こちらから押しかけてやろうと思っていた涼だ。

/ガチャリ/

涼は風呂上りで、少しだけ髪が濡れていて、いつもより黒髪に見えた。視界に飛び込んできたゆり子は、少しばかり疲れているように見えたが、いつもと違う柔らかい雰囲気に、涼の鼓動がドキンと跳ねた。

「あ、、設楽さん、、色っぽい、、」

いきなりそんなことを言う女。

「酔っぱらってんの?まあ、入って。寒いから。」

春は遠からじとはいえども、夜気はまだまだ冷たい。涼の開けたドアの隙間をすっと通り抜けて入ってくるゆり子から、ふわりと女の香りがハナを掠める。

「お前、今日、かわいいじゃん。」
「え?」
「たまにはそんな優しい感じも、い・い・よ・な?」

涼は未だ玄関に立ちすくんでいるゆり子を抱きしめ、チュッと音を立て彼女の唇に口づけをする。けれど、ゆり子が両手で涼の胸を押し返してきた。

「ん?」
「わたし、、、本当にイヤな女、、、嫌悪で、、吐き気がします、、」
「え?」
「行かなければよかった、、、設楽さんの言うこと聞いて、一緒にヴィノーズ コンチェルトに行ってればよかった、、、」

だんだんか細くなっていく声がゆり子の頼りなげな気持ちを表していて、涼は優しく、もう一度抱きしめる。涼の背の高さでもゆり子の上背は丁度良く、華奢な肢体をそっと腕に包み込んだ。

「寒いから、、倉沢、はいって。」

うっとりするような優しい声に、ゆり子は涼に誘われるままにリビングへとあがり込んだ





*****

/コトン/


ほんわかとコーヒーの湯気が立ち上る。涼の居間は、引っ越してきた名残で、未だ未開封のダンボールが数個テーブルの脇にポツンと置き去りになっていた。だが、おおまかは片付いており、部屋の中心を占めるかなり高そうなステレオなどのAV =オーディオビジュアル機器= で占められている。無機質な電子機器が家具のようにどしんと構え、そこに広がる海の色を思い起させる濃紺を基調とした、絨毯やカーテンなどのテキスタイル インテリアが人の心を落ち着かせる。

「倉沢、酔ってるから、コーヒーな?」

ゆり子をソファーに座らせ、涼は、自分は先ほどから飲んでいたウィスキーのグラスを片手に、その隣に寛いで座る。涼が座れば、ソファーの椅子がキシリと沈み、ゆり子の体が少し揺れた。

「さて?誰が誰を嫌いだって?」
「嫌いとは言ってません。」
「ん、それで?」

涼はしばらくゆり子に喋らせることにする。

「わたし、、、結局、、女の誘惑に勝てなかったんです、、、、」

いつもの目力は、今は息をひそめ、うつむいた瞳から頼りなげに長い睫が揺れている。抱きしめたくなる気持ちを抑えて、涼は、じっと耳を傾ける。酔った勢いとはいえ、ゆり子が、ここまで落ち込んで、気持ちを話そうとすることなど、滅多にないことだ。涼は涼やかな一重の瞳を少し細め、ウィスキーを口につけた。暖かい部屋で、溶けかかった氷がカランと音を立てた。




結城洋子(ゆうきようこ)は、商社マンと結婚後、一男一女に恵まれた、絵にかいたような優雅なミセスになっていた。ゆり子の同期女子の中で一番艶やかで華やかな女だった。大学時代は、ミスキャンパスに選ばれ、どんな男の前でも物おじせず、かといって、自分から迫ることもせず、まさに男をフェロモンで釣る、そんな女だ。かくいう涼も、そんなわかり易いフェロモンにつられて何度かセックスをしたのだが、2回目か3回目くらいのセックスの後から、急に、結城洋子は、何かと涼にまとわりつくようになってくる。煩わしさもあったが、男に慣れている女というのは、気安さや、こちらの事情ものみ込んでくれるので、まあ、涼としてもそのままなし崩しに付き合っていたのだが、、、それもせいぜい、半年くらいか。いや、その前に別れた。いや、結城洋子が、涼のちゃらんぽらんさに嫌気がさしてきたのだろう。まったく独占欲もなく、側にいても邪魔扱いはしないけれど、いつも一定の距離をとられ、そのくせやることだけはやる男。どんなにかっこいい男でも、そんな男は、女としては願い下げ“!と言ったところだろう。



「でも、、別れたあとも、結城さん、、、設楽さんとのことを、、同期の女子に自慢げに話していて、、、彼女は昔からとても自信家で、、、、、わかっています。過去のことだって、、全てがあって、今がある。頭ではわかっているのですが、、、」

それが人の心というものだ。頭では、理性ではわかっていても、体が心がついていかない。それどころか、ゆり子は、やはり、嫉妬というのではないのだろうが、昔の女と、自分を比べてしまっていたのかもしれない。


「わたし、、ずっと結城さんに敵わないと思っていて、、、」


それはゆり子らしくないコンプレックスだった。結城洋子は、当時からその美貌やスタイルでも人の目を引いたが、それだけでは入社早々、すぐにボードメンバー付の秘書アシスタントに抜擢されるわけはなかった。つまり彼女はそれなりに秘書としての能力に優れていて、適職だったのかもしれない。ゆり子のほうは、入社時は、今と違って物流管理で、在庫だけをチェックする簡単な仕事を任されていたのだが、それでも見たこともない特殊なソフトや、在庫の特性などを覚えるだけで精いっぱいだった。そんなに必死になって頑張ってみても、結局欠品が出て、長期にわたりバックオーダーになり営業から再三にわたり文句を言われたこともあった。そんな時期だったから、同期でありながら、公私ともにうまくいっているように見えた結城洋子の存在は、ゆり子にとってかなり大きかったのかもしれない。ゆり子より2年先に入社していた涼は、ゆり子の告白を聞きながら、彼女の入社当時を思い出していた。

「そうだったっけ?お前、いっつも達観してなかった?物事?お前の同期の中じゃ、倉沢が結構大人びてた気がするけど?」

当時のゆり子を思い出すことと言えば、いつも涼を睨んでいたあの瞳だ。

「口に出したら、そのままへこんじゃいそうだったから、だから必死だったんですけど、、」
「ふうん。全然知らなかった。」

何気に言った涼の言葉に、いきなり反撃をくらった。

「それは、わたしに興味なかったからでしょ?設楽さんが、」
「げ、な、なんだよ、それ?」
「だって、、、」

ゆり子は普段、あまり、言い訳がましい言葉、『だって』 を使わないのだが、追い詰められると、ついつい口からこぼれてしまう。

「だって、何だよ?」
「いえ、その頃、設楽さんはお忙しかったわけですから。」

少し怒ったようなツンとした口調で、そんなことを言われた。

「とにかく、結婚退職した結城さんは、やっぱり、王道なんでしょうね。」
「なんだよ、その王道って?」
「仕事をきっぱりやめて、安定した生活で、子供を産んで、幸せな奥様っていう王道ですよ。」
「ふん。」

お前が望むなら、そんなものいくらでも叶えてやる、そう涼は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。何度も何度も、その王道とやらを涼はゆり子に提案してきたつもりだが、肝心のゆり子がそれを手にすることを拒んでいるのではないか。それを今さら王道の人生に負けたなどと言われては、涼だってたまったものではない。

「で、倉沢は、羨ましくなっちゃったとか?結城洋子の今を見て?王道ってやつを歩いてる彼女が?」

「羨ましいというのとは、ちょっと違うんですが、、やっぱり一生勝てない人は世の中にいるんだなあ、、って思いました。今回同期から連絡が入って会おうって言われたとき、、わたし、結城さんに会ってみたかった。彼女の今を見たら、もしかしたら、、わたしのほうが、、、なんて、、そんなイヤらしい考えがよぎったりして、、」

うちひしがれたゆり子は額に指をはわせ、そのまま何も言わなかった。ああ、と涼は思う。だからゆり子は、涼が阻止しようと画策したにもかかわらず、あれだけ美和子がやめとけと何度も忠言したのにもかかわらず、珍しく同期と会うことに固執したのか。涼は少しだけゆり子を追い詰める。

「俺を手にいれっちゃったもんな?俺を、メロメロにさせてるのは、後にも先にも倉沢だけだし?下手したら結城洋子に勝てるかもって思って参戦したわけだ。」

涼のイジワルな言葉が部屋に響いた。



「そう、、かもしれませんね。きっと、元カノより、自分の方が上だって思いたかったのかも、、、本当吐きそう、、いやな女で、どっかに消えてしまいたい、、、」


ゆり子は両手で顔を覆った。泣いているわけではないのだろうが、今は、ものすごい自己嫌悪にさいなまれているのだろう。

「ばあか、消えてなくなるなよ。」

もう少し責めてやりたいのだが、やっぱり目の前で落ち込んでいるゆり子をみると、涼の心が切なく痛んだ。

「倉沢がいなくなったら、俺が、、困る。」

隣に座っているゆり子の肩をそっと抱いた。そのまま彼女は、コトン と涼の肩に自分の額をつけた。

「設楽さん、、、わたしを甘やかさないでください。」

ポツリとゆり子がつぶやいた。

「本当にいやな女で気が滅入ります。」

涼の肩に寄りかかりながら、ゆり子の声はだんだんくぐもっていく。

「ああ、、もう、、、」

最後は言葉にならない声が聞こえ、やがて静かな寝息に変わった。

「ふっ、よっぽど、疲れたんだな。」

当たり前の話だ。元カノを含め、全て涼と一度は寝た女ばかりの中で、平常心で気にしないというほうが、おかしな話だろうし、、それでも、いつもと違う、少しばかり彼女たちに嫉妬しているような情けないゆり子を見れただけでも、涼にとっては、またしても少しだけゆり子に近づけた気持ちになった。ゆり子は涼に慣れるのがとても遅い。今だって、まだ、ゆり子の全てはわからない。どんなに肌をあわせても、この女が何を思い、涼に何を求めているのかなど、まったくわからないことばかりで、、、けれど、だからこそゆり子はおもしろくて、彼女に関しては、涼は飽きるすべをもっていない。それでも、付き合い始めたころと比べれば、かなり前進はしてきていることは、事実だ。

「もう少し、慣れろよな?俺に?」

眠っているゆり子の、美しい額にそっと口づけを落とした。
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