シークの涙

20.

「タマール夫人、何か変わったことは?」

ハナの寝室の扉から光りが漏れていて、扉は少しだけ開け放たれていた。モーセはそっと扉を押して、声をかけながら中に入った。だが、そこで彼が目にしたものは、暴れているハナを必死に押さえつけようとしているタマール夫人の姿だった。

「モ、モシートさま、ハナさんをっ!」

夢にうなされたのか、ハナは目を開けて両腕をくうに向けて動かしていた。指に力をいれ、何かを掴もうとしている。タマール夫人が落ちつかせようと、ハナの体を抱え込めば、ハナはそこから逃るように激しく抵抗してやまない。

<ああ、ううう、ううううう>

モーセは大股で寝台に近づく。

「ハナっ!」

思わず叫んだその声に、ハナの大きな瞳が見開いて、キっ!と鬼のような形相でモーセを睨んだ。ハナの両腕の矛先が今度はモーセに向かった。

「ハナッ!ハナッ!」

モーセは何度も彼女の名前を呼んだ。けれど、ハナの目は見開いてモーセを見ているのに、その視線はモーセを通りこしてどこか空中を睨んでいる。

<あああ、ううううううう>

空中に何かがいるように、目を見開いたまま両手をくうに彷徨わせ、何かを掴もうと必死になっていた。

ハナの瞳は、焦点があっていない。いつもの表情豊かな色はなく、ただ黒く無表情な闇がその瞳の奥底に広がっている。睨むその目は狂気に包まれているようで、尋常ではなかった。

<うううううううう>

唸るハナを、モーセは大きな両腕で、ガシリと抱きしめた。モーセの厚い胸板に顔を押し付けられたハナの唸り声がくぐもって聞こえた。華奢なくせに、かなり強い力でモーセの胸の中で抗っている。

「大丈夫だ、ハナ。」
<うううううう、、うううう>

モーセはハナを押しつぶさないように、もう少しだけ、ぐっと力をいれた。ぴったりとハナはモーセの胸にくっついて彼女の体温が感じられた。

「大丈夫だ、もう何も起きない。」
<うううう、うううう>

それでもまだ必死な抵抗を見せる。彼女のくぐもった呻き声は、彼の胸におしつけられ、モーセの胸に熱い吐息を感じる。

「絶対に大丈夫だ。大丈夫だ。」

モーセは同じ言葉を何度も何度も繰り返した。初めこそ、大きな声だった声音も、時間とともに穏やかで静かな口調に変わっていく。

「俺が守ろう。約束する。だから安心するがよい。
きっと守ろう。だから大丈夫だ。」

モーセの穏やかではあるが毅然としたその言葉に、次第にハナの体の力が抜けていく。

「ハナ?」

静かになったと思ったら、ハナの寝息が聞こえた。モーセはハナを覗き込み、彼女が寝入ったのを確認して、抱きかかえているハナをそっとベッドに寝かしつけた。隣でハナの豹変ぶりにかなり驚いていたタマール夫人が、ほおっと安堵の息を漏らした。

「もう大丈夫のようだ。夫人はこのまま寝るがよい。」
「でもハナさん一人では、、」

「今宵はわたしが見ていよう。乗りかかった船だからな?」

フッとモーセが笑った。彼の瞳は細められ、夫人は子供の頃のモーセを思い出した。幼少期から未来のシークを意識して育てられていたが、それでもシークとなる前のモーセは、今よりももっと表情が豊かで優しさに溢れていた。だがシークの仮面をかぶった今、冷酷で非情で、何を考えているのかわからない無表情な顔つきが、他人を縮み上がらせる。

「それではお言葉に甘えて。」

タマール夫人は 今でもモーセの根底に流れているものは慈愛であり慈悲であり、情愛に溢れていることを知っている。だからこそ、さっさとその場を立ち去っていく。彼はハナのこともそうだが、年老いた夫人の健康にも気をかけてくれていたにちがいない。

/バタン/

夫人がドアをそっと閉め出て行った。静けさの中にスースーとハナの寝息だけが聞こえる。先ほどの恐ろしい形相が想像できないくらい、今のハナはとても穏やかで愛くるしい寝顔をしていた。

「何を思っているのだ?」

モーセはポツリとハナにつぶやいた。幻覚を見ていたのだろうか、いやあれは過去の亡霊だったのかもしれない。不遇な過去にとらわれて、心の奥底では未だ過去の遺物に怯えているハナが、哀れでかわいそうに思えた。

モーセはためらいながら、寝ているハナの頭に手をふわりとのせた。彼の大きな手が小さな頭をそっと撫でた。本当に小さくて柔らかくて温かかった。髪の毛は、カシミヤの毛糸玉のように柔らかく絹糸のように滑りがよくて気持ちがいい。

<んん>

ハナの声に、ビクリとモーセの手が止まった。

「む、、」

ハナは笑顔を浮かべ、気持ち良さそうな顔をして寝返りをうった。安心したのだろうか。もうここは安全だと思っただろうか。

「大丈夫だ。」

低くささやきかけて、モーセの長い指が彼女の髪をすいた。



*****

ペルーシアの朝は早い。明け方4時には日が昇り、それを待っていたかのようにわさわさと人々が働き始める。それは都市も田舎も変わらない。日中午後14時を過ぎれば、50度近くまで温度が上昇し、じりじりとこげるような太陽が、人も木も地面もアスファルトも、からからになるまで照らしつける。働くのならば朝が勝負だ。天下を取りたきゃ太陽より前を歩け!ということわざが王国にはある。勿論外気の温度などモノともせず、冷房完備、いつでも快適な暮らしを約束されている金持ちたちは、別の話。だが、ここモーセの屋敷では、主(あるじ)自ら、この諺を実践しているため、使用人たちの朝もとびきり早い。

ハナは初め、未だ夢の中なのかと思った。

大きな瞳に飛び込んできたのは、無防備な、けれど荘厳と言えるような美しい顔つき、、その瞼は閉じられていた。

<モ、、モーセ?>

ハナには昨夜の記憶がほとんどない。勿論、倒れる少し前までの記憶はあるのだが、、、

(き、、綺麗、、)

寝姿も美しく、そしていつもの威圧感が息を潜め、その鎧を脱いだ彼本来の姿に色香が漂う。思わず、ハナの顔が知らずうちに赤らんでいた。突然、妖艶な舞姫が頭を過ぎった。こんな寝姿をいつもまじかに見ている女。ハナの胸が、わけもわからず、チクリと痛む。

ハナが起きている空気を察したのか、モーセの体が動いた。そしてゆっくりと瞼を開け、長い睫毛が茶色の瞳を見せ始める。

「うむ」

モーセの目の前に小動物が固まっていた。パチパチと瞬きはしているので、どうやら生きているらしい。

「もう、、大丈夫か?」
<??、、>

ハナの表情でモーセは、彼女の昨夜の記憶が飛んでいるのがわかった。ならば言及する必要はないとばかりに、ベッドの脇傍にある椅子からスラリと立ちあがった。何も言わずに立ち去ろうとしたモーセのシャツの裾が引っ張られた。

「む?」

ハナはあわててベッド脇に置いてあるスケッチブックにサラサラとすごいスピードで何やら書きはじめた。とにかく気持ちだけが文字に表れた。

【昨夜、何かあった?】

モーセは怪訝そうな顔をした。実際、本人が記憶していないものを、今さら言っても意味がないように思えた。

「覚えてないのなら、言っても仕方があるまい。」

/サラサラ/
文字を書きなぐる。

<それでも聞きたい。>

黒い瞳が真剣にモーセの瞳をとらえる。

「お前は昨夜倒れたのだ。」

【いつ?】

「パーティに行ったのは覚えているのか?」

コクリと頷いた。

「そのパーティがお開きとなろうとするときだった。サビーンが安定剤を処方したのだが、夜中にかなりうなされていた。」

ハナはじっと黙りこくった。夜中に暴れたのかもしれない。でなければ、モーセが枕元で寝ているわけはないのだ。

【ごめんなさい、、】

「謝るに及ばない。」

モーセはそれだけ残してハナの前から立ち去った。モーセがいなくなると、何故この部屋は急にシーンと静まり返るのだろう。何故こんなにも広く感じるのだろう。部屋だけではない。ハナの心に風が吹いたように、寂しく切なくなった。

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