シークの涙

24.

「ここのところ良い兆候が見られてるわ。」

月2,3度、モーセの社長室で、その部屋の主とサビーンとラビとが顔を合わせてハナの病状のすり合わせを行うことが、習慣となりつつある。

「ついこの間のセッションでは、ハナ、初めて、お母さんとの思い出をしゃべっていた。お母さんの得意料理は、カレーって教えてくれたわ。もともとすみれさんお料理うまかったから、どれもこれも美味しかったんだけど、、ハナにとってはカレーがママの味だったのねえ。」

「「カレー??」」

聞きなれない言葉にモーセもラビも聞き返した。

「ま、オリジナルはインドなどのあちら側に遡るんだけど、それをベースにして、日本人独自の日本カレーが浸透しているの。これ、日本人の定番。」
「スシよりもか?」

モーセはナマものは苦手でスシはあまり好きではないが、さすがに日本の食文化として有名であることは知っている。

「ええ、スシはどちらかというと、外食の代表的食べ物ね。でもカレーは勿論レストランでも食べれるけれど、家庭料理としても代表的なひとつね。その家庭家庭で織り成す味が違うから、カレーはマイホームの味なの。」



【お母さんのカレーはいつもイチジク入ってたの。そうするとすごくまろやかで、、
ペルーシアにもイチジクあるのかな?もしあればいつかサビーンやモーセや、ラビや、タマール夫人や他のみんなに食べさせてあげたいな。】


モーセの形の綺麗なアーチを描く唇が自然と上にあがった。イチジクはここペルーシアでも盛んな農作物の一つであり、欧米などの輸出も盛んだった。元々、古代エジプトで早くから食べられており、その影響から、ここペルーシア王国にも作物が根付いていた。

「つまり、ハナさんは無意識のうちに、食べ物を通じて過去に遡りお母様の思い出とリンクした。」
「そう、その上、食べ物を思い出すということは、記憶のビジュアル面だけでなく、味や香りや、食感などが思い出され脳を刺激していくの。わたしは、ハナにとって、良い兆候だと思っているわ。」

サビーンは二人の男に向かって微笑んだ。

「ラビやモーセのお陰ね。ふふふ。」

意味ありげに笑ったサビーンの真意を測るほどモーセは暇でもない。ただ鼻をフンと鳴らしただけだ。

「何度も言うが、俺は、俺のやり方でしか生きられない。それが悪影響を及ばすこともあるやもしれぬ。ならば、アイツの病状が進まぬうちに、お前も対策を立てる必要がある。」
「え?」

モーセの意味ありげな言葉に、サビーンは長い睫毛をしばたたかせた。だが彼女は何も言わなかった。モーセはハナの病状についてはすでに興味を失ったかのように、ラビに向かって厳しい顔を向けた。

「ラビ、あの件はどうなっている?」
「はい。昨夜遅く、カサム地方で取り押さえました。」

モーセはラビたち部下の鮮やかな対応に満足したかのように、頷いた。サビーンがまだ部屋を退室しないのを不信に思いモーセは声をかけた。

「何だ?まだ用があるのか?」
「モーセ、前にわたしの提案した施設のこと覚えてる?」
「、、、、」

無言になったモーセの記憶を呼び起こすように、サビーンは話を続けた。

「ほら?女性専用の施設よ。」
「む。」

毎日の忙しさに追われさすがのモーセもその件を忘れていたようだ。ラビが話を引き継いだ。

「女性専用と申しますと?」
「何らかの精神的障害を抱えている女性たちの社会復帰の手伝いをしたり、また、虐待されたりしている女性達のシェルター場所のような、、」

ペルーシア・シティに住んでいる女たちは、比較的自由に生き易くはなっていたが、何かと制約がついて回るのも事実だ。あのナイーフ王子の歓迎のハグをされたサビーンに、保守的な人々から冷たい視線で見られていたことも、それを物語る。こういう、未婚女性への挨拶にしてもしかり、また、人々の性に対しても、まだまだ閉鎖的なところがあった。ましてやこれが地方の話となれば、古き悪しき習慣が女たちに要求され、多くの女たちは屈辱に耐えていかなくてはならない。

実際、建前上は、未婚女性の処女性は重要であり、結婚前に男と契りを交わすなどということはあってはならない。だがそれは男たちにとって、一種の建前となっている。水面下では、男たちの性への欲求は強い。特に地方では、男たちは表向き欲情を押さえ込んでいるため、レイプなどの社会現象が後をたたないのだ。そうやって己の欲望を満たしておきながら、自分の妻となる女には処女を望む。随分と男のための身勝手な理論なのだが、それに反論を唱える女たちは、ここペルーシアにはまだいない。そのため男たちの横行は地方では絶えることがない。自分たちの獣欲のために横暴を実行する。そのひとつに幼な妻という風習があった。無垢な少女たちを娶ることで、好色を匂わす男たちは富と権力を世間に見せつける。そして貧しい少女たちを金で買い所有権をふりかざし、暴力や虐待などが行われている社会的背景もあった。これはシークが今最も懸念している王国の問題のひとつでもある。

サビーンの話を黙って聞いているモーセとは対照的に、ラビの顔色が少しだけ変わった。それは本当に些細な変化で、サビーンは気がつかなかった。

「つまり、そういった被害にあった女性達をかくまい保護をする、、世間にさらされた冷たい目から守ってあげる駆け込み寺のようなもの、、ということですね?」

自分に言い聞かせるように、ラビはゆっくりと口に出した。

「ええ。でも、それだけではないの。被害にあった女性たちの心の傷は大きいけれど、そこで一生隠れて生きていくわけにはいかないの。どんな目にあっても、それぞれが、それぞれ、幸せになる権利はあるんだから、、だから、わたしはその手伝いをしたいのよ。」
「なるほど、、、」

ラビにはどうやら初耳だったらしい。

「もう、ひどいわ、モーセ。完全に忘れていたのね?ひどいったらありゃしない。ハナに言いつけてやろうかしら。」

モーセの眉があがった。

「なぜ、そこでアレの名前があるのだ?」
「だって、ハナにとってもそういう女性達と交流していくのは悪い事じゃないし、それに、ゆくゆくは、ハナにもそこの手伝いをしてもらうつもり。いつまでも、あなたにオンブに抱っこで置いてもらって、仕事までお情けでもらって、そんなのは、あののストレスが増すばかり。」

サビーンの言葉は手厳しかった。まるでモーセが厄介者を背負い込んで辟易していると言わんばかりの言い草だった。ラビが溜まりかねて声をあげそうになったそのとき、ひとつ呼吸早く腹にぐぐぐっと響く低い声が聞こえた。

「フン、随分と言ってくれるな?
俺は情けで仕事を決めるほどオメデタイヤツではない。」

「フフフ、そうだと思ったわ。ね?ハナは役に立ってるでしょう?」

はじめハナをイヤイヤ引き取ったモーセを揶揄した。つまりモーセの口から、ハナは決して厄介者ではないのだと言わせたかったらしく、サビーンは嬉しそうに笑った。モーセは不機嫌そうな顔をした。この従姉妹は気をつけないと、昔から、知らないうちにやりこめられてしまう。ラビは、二人のやり取りを微笑ましそうに見つめていた。

「じゃ、わたし、帰るわね。あ、今夜はハナを連れ出して映画に行ってくるわ。」

鮮やかにウィンクをしながら、サビーンはあわただしく出て行った。黙っていれば美女だと言われても頷けるのに、口を開けば小うるさいし、態度もガサツなところがあるものだと、その後姿を見つめながら、モーセはクッと笑った。

「アイツが嫁に行く姿が、どうも想像できん。」

一族の長らしく、少しばかりサビーンの将来を懸念しながらそうつぶやいた。彼女は経済的にも一人の人間としても完全に自立しているのだから、モーセが気にかけることもない。それは彼が一番よくわかっていた。モーセは気を取り直したように、ラビに向き合った。

「さっきの話なのだが、、」
はい。シークのめいを待っております。」
「ならば、掟通りだ。一応、シュリの者と卿を、そいつの元に行かせろ。とりあえず、話だけはさせてやろう。だが、、、」

モーセは結論を言わなかった。シュリとはペルーシア王国の司法機関のことであり、卿とは、人間の最期の言葉を聞いて安らかなる眠りに手を貸す者のことだ。だから、モーセの真意はラビにはそれで十分に伝わる。

「わかりました。」

ラビの冷静な返事が聞こえた。

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