シークの涙

56.

/ガチャリ/

サビーンが扉をあけて出て行った。


「ハナさん、、わたしはあなたを利用しました。すみませんでした。」

ハナの傍らに跪いたまま、ラビは頭をしっかり下げた。下を向いた額からサラリと前髪がハナの布団の上に落ちた。

「シークは最後まで反対してらっしゃったのを、わたしが強行に、あなたを囮に使うことを指示したのです。だから、あなたのその怪我も、、、」

ラビが言葉を全身で吐くたびに、下を向いた顔からラビの前髪が揺れる。ハナはペンを取り、文字を書く。ゆっくりとスケッチブックを彼の俯いた顔の下に差し込んだ。ラビの目の前に、ハナの丸い文字が広がっていく。

【信じてたから。】
「え?」

ラビの顔が上がった。眼鏡の奥に潜む瞳は濡れているように見える。額に落ちていた前髪をラビは払った。

【モーセを信じてたから。モーセはきっと傍にいると思ったから。】

ハナの絶対に折れることのないモーセへの信頼。

【それに、ラビは犯人を捕まえてくれた。
「しかし、それは、あなたの危険の上に成功した結果論だ!」

【それでも、ずっとずっと何もわからなくて、、苦しかった心の痛みを治してくれたよ、ラビ。】
「、、、、」

ハナは両手の人差し指をねじりはじめ、自分の胸をトントンと叩いた後、人差し指をラビの前で振った。

<イタイ、、、ココロ、、、チガウ>

――― もう、心が痛くないよ。

すみれは自殺ではなかったのだ。ハナを置いていったしまったのではない。ただ、あのとき、あの瞬間、すみれが衝動的に守ったもの。それは、最後までコスギだけの妻でいたかった気持ち、ハナだけの母親でいたかった気持ち、そんな強い意思が働いて悲劇を生んだとしても、今は、ハナのせいではなかったと、ハナは知っている。それは、長い間、ハナを苦しめていた呵責 =求めれば必ず失くしてしまう= を放つきっかけを作ってくれた。真実を手にれいたことは、いつもずっともがき苦しでいたハナの心を解き放ってくれたのだ。ハナは満面の笑顔でラビを見つめた。ラビは自分の頬に何かが伝うのを感じていた。溢れる気持ちが、堰をきって、流れて、、、もう、、それは止められなかった。

「ああ、ハナさん、、、ハナさん、、、」

子供のように、本当に稀なことだけれど、ラビは泣いた。臆面もなくハナの前で嗚咽を漏らした。今まで奥底でとぐろを巻いていた苦しく重い鉛を吐き出すように、とめどなく流れる涙に、ラビは心のままに泣いていた。


眼鏡をはずし、片手で両目を押さえ、ラビがぼそりとつぶやいた。

「ああ、どうやら年のせいでしょうか、、、最近、涙腺が緩みっぱなしで、、みっともない、、何ともお見苦しいところをお見せしてしまって、、、」

おそるおそるラビは隠していた目から手を外し、いつものようなラビに戻るように銀のフレーム眼鏡をすっとかける。レンズの向こうで赤くなった瞳が、照れ臭そうに笑っていた。ハナは思いついたようにスケッチブックを取った。

【大丈夫。ラビは綺麗だから、泣き顔も綺麗ですよ?】
「いや、それは、、あれです。わたしも男ですから、、泣き顔が綺麗などとは、それは褒め言葉というよりも、、、いや、困ります。」

照れたように笑ったラビはとても魅力的だった。心の底からの笑顔のようで、ハナも思いっきり嬉しくなった。


「誰の泣き顔が綺麗なのだ?」

突然不機嫌きわまりない声がした。ハナとラビの空気がピりっと変わった。

どうやら、先ほどサビーンが出て行ったドアはきちんと閉められてはいなかったらしい。ドアの隙間から、和気あいあいとする二人の和やかな雰囲気が廊下にも漏れていたようだ。ノックもせずに、仏頂面で入ってきたモーセに、ハナもラビも一瞬動きが止まる。

「シーク!」

振り向いたラビよりも早く、モーセは大股ですでにハナのベッドへと近づいた。ハナはこの上もなく幸せな顔でモーセを迎えた。ハナが近づいたモーセの顔を見上げれば、二人の視線がからまっていく。ラビは、瞬間に二人の変化を感じ取った。

この一週間、モーセはハナにつきっきりで病院に詰めていた。ラビが顔を出さなかった二人の時間に、何があったのだろうか。二人の雰囲気が何だか今までと違うように感じられた。口ではっきりと言い表せないのだが、ハナとモーセがいる空気は、まるで柔らかな春の陽ざしを感じさせる。ラビもうすうすは気が付いていた。いつの頃からか、モーセがハナを見つめる眼差しには何の警戒心も構えもなくなったように思えた。彼の薄茶色の瞳は、邪心もなく、ただ、自然に優しい光を放っていた。だがその優しい雰囲気はいつだって長くは続かなかった。モーセが、何かに気が付いたように、突然その柔らかな光を遮断する。そして何事もなかったように、いつものような威光を放つ瞳の色に変えてしまう。ハナとの間にモーセは壁を作っていたように見えた。だが、今、ラビの目の前にいるモーセは、その壁を崩し、どうやら完全にあがらうことをやめたらしい。だからこそ、こんなにも温かい空気に包まれているのだ。

「わたしはこれで失礼いたします、シーク。ハナさんまた来ますね。」

ラビは暇乞いを告げた。来たときとは比べもにならないほど、ラビの気持ちは清々しく晴れ晴れとしていた。


「さすがに出来る部下だ。」

さっさと空気を読んで退室したラビに、モーセはひとりごちた。ハナは意味がわからないようで、小首をかしげた。

「どうだ、ハナ、具合は平気なのか?」

モーセの大きな手がハナの額に触れる。手のひらの感触が心地よくてハナは目をそっとつぶった。その瞬間、ハナの唇に柔らかな温かい感触を感じた。

<あ>

モーセの形の良い唇は、慣れた動きでハナの唇に刺激を与える。驚いたようにハナが目を見開けば、モーセの面白そうな瞳とぶつかった。それでもモーセは口づけを止めず舌を入れてハナの口内を侵していく。そんな情熱的なキスは初めてで、ハナはびっくりするように腰をひく。ベッドの背もたれに置いてあった枕がくしゃりと音をたてた。

「わたしのキスは嫌か?」

唇を離し、逃げるハナにモーセが問う。ハナは真っ赤になった。何て答えていいのかわからなかった。ハナが怪我をしてから、ずっとモーセは傍にいてくれた。最初はハナも、腕の痛みに苦しみ、鎮痛剤などで意識がぼおっとすることも多かった。だが日が経つにつれ、元気が戻ってくると、モーセの態度にハナは驚きを隠せなかった。モーセはハナを気遣ってひとときとも離れようとしなかったし、すぐにキスをしたり、その大きな手で髪をもてあそばれたり、いわゆるかなり密なスキンシップをとるようになった。

スケッチブックを取り、ハナはサラサラと言葉をつなげていく。

【モーセ、、何かあったの?何だか、、、】

前と態度が違う、、そう書きたかった質問を飲み込んで、スケッチブックをモーセに見せた。彼は熱を帯びた瞳で答える。

「お前を失うくらいなら、わたしの手でめちゃくちゃにしてやりたい。」

ハナの体がぶるりと震えた。ハナの質問とは違う答えだ。とても怖い言葉だけれど、モーセに必要とされているように思えた。だが、ハナは何も言葉を返せなかった。

「いいか?ハナ。これからは、お前はどんなときもいつまでも俺の傍にいるのだ。」
<え?>

「お前はもう俺の宝だ。絶対に手放すことはできない俺の宝だ。」

ハナの胸がドキリと震えた。

「だから、今度は俺がお前の宝になりたいのだ。」

美しい男は、そんな言葉をさらりと言ってのけた。ハナはどうしていいのかわからなかった。それは、もうモーセの傍を離れなくてもいいという意味だろうか。たとえ、彼に第二第三のジーナが現れたとしても、たとえモーセが結婚したとしても、それでもハナを傍に置いてくれるのだろうか。ハナの胸がツキンと痛んだ。宝のひとつになりたかっただけなのに、今、自分でモーセの恋人や妻を思っただけで、こんなにも胸が苦しくて喉がつまりそうになる。ハナがモーセを慕う気持ちは、ハナの不安な心にふわふわの柔らかい真綿で覆ってくれるように、不安を消し去ってくれる。モーセの存在はもうハナにとっては当たり前のことで、彼がいるだけで心に灯りがともるように優しく満たされていく。この灯はもう消せない。ハナはモーセを愛している。だから、彼の傍にいること、彼が傍にいることは嬉しかったけれど、モーセが他の女にその眼差しを向けてしまうことは、もう耐えられられない。考えただけで、何かがポキリと折れてしまいそうだ。

「どうしたのだ、何故泣くのだ?」

モーセが心配そうに、ハナの顎を掴んで顔を上げさせた。ハナは自分でも知らないうちに涙を流していた。

「どこか痛むのか?」

ハナは頭をぶんぶんと横に振って、大丈夫だと告げる。目の奥が益々熱くなっていく。

「ハナ、言いなさい。俺にどうしてほしいのだ?」

また首をぶんぶんと横に振った。

「ハナ?」
<、、、、>

「ハナ、、、」

モーセの声は優しく、けれどどこか心配げな声音が見え隠れする。ハナは唇をかんでぐっと奥歯を噛んだ。でないと、心の叫びがつい零れ落ちそうになってしまう。モーセを困らせたくなかった。もしそんな風に何もかもモーセに言ってしまったら、、、

「ハナ、、、」

ハナを呼ぶモーセの声はまるで魔法の呪文だ。抗えない。正直な気持ちに抗うことなどできなかった。空に差し出したハナの指先が震えている。だが動きをやめなかった。

自分を指差し、両手を交差させそっと胸に乗せ、そしてモーセを指さした。

<ワタシ、、アイシテル、、、アナタヲ、、>
――― モーセが好き。

モーセはこの手話を知らない。きっとわからないはずだ。もう想いは隠せなかった。次から次へあふれ出すこの気持ちは止まらなかった。もう胸の中にはしまっておけなかった。ハナの胸に熱く苦しいものが込みあがってくる。こらえているはずなのに、喉を押し寄せる嗚咽が止まらなかった。音にならない嗚咽は、ハナの細い小さな肩をますます震わせた。モーセはハナを上に向かせたまま、顎を掴んだ指を離さなかった。彼の顔が、ハナの瞳をいっぱいに満たしていく。

「ふ、、わたしもだ。ハナ。」

<え?>

「俺もお前を愛している。」

大きな黒い瞳は驚きを隠せなかった。気持ちを抑えることが出来なくて、モーセに好きだと言いたかった。けれど、モーセを困らせなくない。ならば、、手話なら構わないだろう。モーセは手話を知らないから。なのに、、、

ハナの素直な驚きは、モーセの心を優しく紐解いていく。彼も心のままに言葉を紡ぐ。

「俺が手話を知らないとでも思ったか?」
<、、、、>

「いや、最近サビーンに教わったばかりだがな。」




『何よ、どういう風の吹き回しよ?I love youの手話が知りたいって、まさか、、あなた?』

サビーンは明らかに信じられないという顔をして、モーセを見つめていた。





「かなり、やんや言われたがな、、だが、俺はもう、ハナ、おまえに嘘はつかない。」

頭の中が真白くなるとはこういうことか。ハナは、瞬きするのも忘れ、口をぽかんとあけ、まるでモーセの言葉を反芻するように、身動きひとつできなかった。

「だから、お前は俺の傍にいればいい。」

ハナはモーセを指をさした。

「そうだ。俺もお前の傍にいる。ずっとだ。」

二人の視線が熱く絡み合った。ハナの潤んだ瞳は、モーセのたがをあっというまに外す。庇護してやりたいのに、めちゃくちゃにしてもっと泣かせたい、、決してサディストではないのに、そんなモーセの嗜虐心を刺激する。けれど彼女の涙は最強で、すぐにモーセの心に痛みをもたらすのだ。

「まいった、、、」

誰に言うともなくつぶやくモーセの言葉が空気に溶け込んでいく。そしてモーセの唇はハナの甘い唇を奪っていく。


「甘い。」
<え?>
「いつも菓子でも食べているのか?」

首を横にふるハナに、モーセは少しだけ尊大な笑いを浮かべた。照れているのだ。

「ふん、お前の唇はいつでも甘い。てっきり食い意地の張ったお前は、隠れて何かを食べているかと思っていた。」

ハナは怒ったような顔をしてモーセを見れば、彼は口元を隠すように、クククと肩を震わせている。

モーセと知り合ってから、意外に笑い上戸な男だと知った。本当の優しさを心の奥に隠していたのも知っている。彼は自分に厳しく、責任を重んじる。孤独を好むのは、他人を頼れば己が弱くなっていくからだろう。どんなに自分が傷ついていても、タイセツナモノを守るため、両腕を広げる。そして冷たい顔をして、冷酷な言葉を放つ。だがそこには嘘はない。だからこそ、モーセの言葉は絶対だ。絶対なのだ。

「愛している。ハナ。」

美しい男の告白は、この後、ハナに熱をもたらした。そしてモーセはサビーンにこっぴどく叱られる事となった。

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system