わんこの騒動

3.

「うわっ、久しぶり。」

ちょっとお高めのワインを手にしてゆり子が旧友にでも会ったかのように、ワイングラスを見つめて優しく微笑んだ。そして幸せそうに、美しいバーガンディ色の液体を口につける。

「ああ、美味しい。」

隣に座っている涼に笑顔を向けられ、涼はドキリとする。今夜は高いワインを飲もう!と誘いをかけた。実は涼なりに反省はしていて、、己の淫らな性欲でゆり子に散々無理をさせてしまい、挙句会社を休ませた。なので、あれから、一度もゆり子を抱いていない。といっても1週間ほどの話だが、、、だが、涼にとってはこれはかなり禁欲生活なのだ。ちょっと前の自分なら、性欲もここのところ下降気味だよな、と嘯いていた自分が信じられないわけで、、、

今ゆり子が堪能しているのは、フランス産のブルゴーニュ地方の赤。やはりフランス産には、老舗の安心感がぶどうから感じられる。

「何だかご褒美をもらった気分。はあ。」

大きな口の開いた華奢なワイングラスにたっぷり空気を混ぜながら、もう一度彼女はゴクっと喉に流し込んでいく。白く細い首元が上下にかすかに動き、涼はゆり子のアラレモナイ姿を思い出し、あわてて頭を振った。

「どうしました?」

やばすぎる己の妄想を押しやりながら、息を吸ったあと、昼間の出来事をゆり子に話していく。

「惚れられました?舞ちゃんに?」

ゆり子は面白そうな口調で言った。

「ばあか、お前ヒトゴトだと思うなよな!」

不機嫌そうな口調で涼もワインをゴクリと飲む。少しくらい妬いてもよさそうだろうが、いや、あんなガキではゆり子が嫉妬するほどの価値もない、などと涼は勝手に思う。

「だけど、北村は本当に女を知らなさ過ぎる!俺マジ心配になった。」
「ふふ、でも北村さんみたいなタイプの男性もいないと、世の女子たちの努力の甲斐がなくて結構大変で面倒くさいことになりそうですけど?」
「はあ?」
「だってそうじゃないですか?彼女たちは男性のために可愛いくいようと、多少、作ったり、ぶったり、そんなことを一生懸命やってるんですもの。多少その努力が報われなくては、やってる意味がないでしょうし、、世の男性が全て設楽さんみたいに女の嫌な面にばかり目がいかれたんじゃ、たまったもんじゃありませんから。」

そう言って、ゆり子はまた美味しそうに赤ワインを口につけた。前から思っていたが、ゆり子は美味しいワインを前にすると饒舌で、結構本音が聞ける、涼はにやりと唇の端をあげた。

「お前、随分寛大だよな?だったら、そんな俺の女になってる倉沢って、どんな気持ちなわけ?」
「怖いですよ。とっても。底まで見透かされてしまっているようで、、」

ゆり子の意外な言葉だ。怖いのは涼であり、いつだって翻弄されているのも涼だし、そして、一番怖いのが温度差なのだ。涼がゆり子を思うほど、彼女は果たして彼をどれほど思ってくれているのだろうか。

「ふうん、意外。」

涼は素直につぶやいた。

「そうですか?」

ゆり子の細い指がグラスの足を撫でる。あの指で、涼の髪に触れたり、背中にふれて、、ゾクリ、、、背筋が震えてしまう。涼はもう観念することにした。ブラウンのコーデュロイジャケットのポケットをゴソゴソと漁った。

/カタン/

「はい。」

カウンターの上にビロードの小さな小箱。

「開けてみて。」

ゆり子は素直にその箱を手にとり、手の中で包んだ。

/カチッ/

「綺麗、、、、」

薄暗いバーの中で、まるでスポットライトを浴びているような、燦然と輝くダイヤモンド。

「設楽さん? これって?」

ゆり子の問いに、涼が照れた。

「そういうこと。俺、もう、面倒くさいゴタゴタとか超ウザイし、、、他人から色々噂されるくらいなら、な?」

一重の切れ長の瞳が真剣で怖いくらいだ。


「結婚しないか? 倉沢?」


涼の胸が騒がしくドキンドキン、鼓動が勝手に速く動いてしまい、喉から何かが出てきそうなくらい、、、ゆり子が口を開くまでの沈黙がとても長くてしんどい。

「北村さんに、、影響されちゃいましたか?」

ゆり子は、箱を大事そうに手の中で納め、透明で何面もの顔を見せる光の色を見つめたままだ。

「え?」
「結婚なんて、本当は考えてなかったでしょう? 設楽さん、、」

涼は何度もこの瞬間を思い描き、先ほどまで幾度となくシュミレーションを繰り返していた。だが、このゆり子の反応は、想定外。確かに指輪を買ってしまったのは衝動と言わざる終えない。笠原舞花や会社の女子社員の煩わしさを思い浮かべ、ゆり子を完全に手中に納めたくなった。だから、北村たちと別れたその足で宝石店に出向き、すでに死語となっている、給料の3か月分を目安に買った指輪。だが、だからといって、結婚を意識したのは、北村の見合い話云々というのがきっかけではない。幾夜とゆり子を抱くたびに、いつだって結婚を意識していた。

「ふうん。じゃ、倉沢は結婚、、俺との結婚意識してなかった?」

こうなれば、得意の質問返しをする、ちょっとばかし卑怯な涼だ。だが、この際、体裁など繕ってもいられない。

「んん、そうですね、、、結婚が一瞬過ぎったことはあったと、、思います。でもすぐに打ち消しましたから。」
「なんで?」
「何となく不毛かなって。そんなことを考えること自体、不毛な気がして、、、」
「、、、」

涼はもっとゆり子を問い詰めたかった。何で不毛なんだよ、俺と結婚したくないのかよ?!そんな風に叫んでみたかったのに、、、結局心の底は大人になりきれてないくせに、妙に体面だけ、自分のプライドだけ、そういうことを大切にしてしまう大人になってしまったのか、、、

「じゃ、、これ、、無駄、、ってこと?」
「、、、、本当に、、わたしと結婚したいですか?」

切れ長の瞳が逃げることなく、涼の目を睨んでいた。

「な、なに、、」
「朝起きてからずうっと一緒にいるんですよ?」
「わ、わかってるよ。」

「週末だけとか、会いたいときに会うっていう今のような付き合いではなくなって、、自分の都合ではなく相手の気持ち、家族の都合を優先させなきゃならないだろうし、、今まで通りの自由だってなくなるだろうし、、」
「わかってるよ!」

涼の声が明かに不機嫌な声音に変わった。

「俺はわかってる。結局アレだろ?倉沢が嫌なんだろう?そういうのが、結婚っていうのが、嫌なんだろう?」

涼はそのまま、勘定のチェックバインダーを手にとって席をたった。背中でゆり子が息をのむ音がした。かまうのものか、、そんな気持ちが先立って後も見ずにバーの出口へと急いだ。

キレタ。生まれて初めて、キレタ。負の感情をコントロールできなかったのは涼にとって、生まれて初めてだった。彼は怒らないわけではない。反論をしないわけではない。だが、その感情は、涼にとって計算つくされたものだ。冷静に相手を攻めていく。怒りは胸の奥で待機させ、理路整然を武器に、いつも自分を有利な方へと導いていた。それは恋愛も同じだ。女が別れないでとせがむ。結婚してとせがむ。捨てないでと泣き喚く。体だけの関係でもいいからと、、懇願される。だが、涼の心が相手から冷めていれば、女がなんと言おうと、涼の思う通りの結果を導いていた。まあ、あまり厄介な女とは付き合わないにしていたという涼の計算もあって、小さなトラブルはあったとしても、今まで大きな問題には発展はしなかった。だがそんなことも20代後半までのことで、仕事に没頭するようになってからは、そういった派手な女遊びもピリオドを打っていた。冒険の海にでて嵐にもあいながらも様々な経験を学び舎として、やっと順風満帆な航海までこぎつけたというのに、、、その安心していた矢先に、突然、今までに一度も経験したことのない天災に見舞われた。今まで涼の培ってきた知恵の全てが、ひっくり返った。ゆり子の前で、結局、ガキのように感情に流された、、、

涼にとって計算ではカバーしようもない出来事で、しばらく、脳回線がヒートしたようだ。だが、やがてすぐに頭は冷える。このまま、終わっていくのだろうか、、嫌な予感がした。再び、涼に負の妄想と負の感情を呼び起こす。このまま何もしなくても、ゆり子はきっと変わらない。普段通りの冷静なゆり子が 仕事場で冷静に涼と仕事の話をする。いつものように、見慣れた風景。牧川に微笑みかけるのと同じように、涼にも笑みを浮かべることもあるだろう。ときには、仕事上の付き合いで、飲みに行ってワインを楽しむこともあるだろう。けれど、、、それだけ、、だ。ゆり子にとって、涼は、なんの意味も持たなくなる。単なる一同僚、会社の先輩の一人に過ぎない、、そんな関係が、、、

/ドスっ!/

気がつけば、ベッドの枕に拳を叩きつけていた。だが、叩いた音は、布に吸収され何ともふがいない音になり、耳に響いた。自宅のベッドは、ゆり子がいないと、こんなにも広くて、寒々としていただろうか、、

(かっこわりい、、、)

涼は長い睫毛を伏せ、何とも情けない思考を追い出すかのように、他のことを考える。そうだ、明日は牧川にタラウマラオイルの入荷を確認させよう、、そんなことを思った刹那、ゆり子の顔がフラッシュバックする。

結局ゆり子の部署は、涼の仕事とは切ってもきれない関係で、何だかため息が漏れた。眠れないとわかっていても、必死に明日のために眠ろうと目をぎゅっと瞑る。何度も何度も寝返りを打った。不眠症に悩まされながら、それでも夜は明け、太陽は昇っていくのだ。
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